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東日本大震災から3ヶ月(2)

津波の被害に追い打ちをかけるように、福島の原発事故が明らかになりました。そこで、考えさせられたのが「便利さと進歩」でした。 子どもの頃、家には、かまどがありました。薪作りは祖父の仕事、かまどの火の番は子どもの役目でした。真っ黒になって煙突掃除をするのは父の仕事でした。いつ頃からかボタンを押すだけで思い通りの時間にご飯を炊くことができる電気釜が普及しました。電気は便利さの代名詞になり、電気洗濯機、電気冷蔵庫、電気湯沸かし器、クーラー、そしてパソコン、携帯電話などの電気製品が次々と生活の中に入ってきました。電気が、どれだけの時間が生みだし、どれだけ私たちの生活を便利にしてくれたことでしょうか。 しかし、この便利さは、非常に脆弱な基盤の上に作られたものでした。私たちの生活は、電気が止められたら何もできないところまで来てしまいました。しかも、その電気の3割をまかなっている原発は、一度事故を起こすと、コントロール出来なくなり、生き物の生存に影響を与えるという目に見えない放射能を大量にまき散らし、その廃棄物の処理の解決の糸口も見つけられない、危険きわまりない代物だということが分かりました。 今後、原発の安全性を高めて推進するのか、ドイツのように脱原発をめざして、バイオマスや太陽光、地熱発電などの自然エネルギーに転換するのかは、議論の別れるところだと思いますが、電気は無尽蔵にあり使い放題という生活スタイルは、これからは変えて行く必要があると思います。 私は宇宙から撮影した地球の写真をよく眺めます。漆黒に浮かぶ青い地球は本当にきれいです。しかし、このきれいな星は、壊れやすいガラス細工の星でもあることを今回の震災で思い知りました。自分たちの便利さだけを追求するのではなく、人類の真の進歩とは何かを考え、100年先、200年先の子どもたちに禍根を残さない選択をして行くべきだと思います。

東日本大震災から3ヶ月(1)

3月11日、昼休みの散歩を終えて4階のオフィスで仕事を始めた矢先に、それは来ました。ドンと縦揺れが来て、横に変わりました。倒れかけた独楽の軸がぶれるような揺れに変わりました。逃げるとか身の安全を守るとかを考える余裕は無く、ただ自分の体を支えて揺れが治まるのを待つのが精一杯でした。天井が抜けたら、これで終わるという恐怖感がありました。 2番目の揺れが来たときには、外にいました。電線がゆっさゆっさと大きく波打っていました。携帯は全くつながらず、部屋にも戻れず、ただ地面に足をつけているという安心感を得るために集まっていました。オフィスに戻ると、300キロもあるプリンタが1メートルも動いていました。書籍棚からは本が飛び出して散乱していました。テレビは、交通機関が止まっていると言うニュースを繰り返し流していました。 4時頃、帰宅できる人は帰って良いと言う社内放送がありました。歩いて帰るもの、会社に泊まる準備をすすめるもの、バスなどの代替交通機関を利用するもの、それぞれの考えで行動していました。食料を求めて、外に出ましたがコンビニには行列ができており、すでにカップラーメンなどは、全て売り切れていました。仕方なく、行きつけの蕎麦屋でカツ丼を食べました。 その夜は、Twitterで誘われて茅場町の水産会社の子会社に勤めている友人のオフィスで一晩過ごしました。サバの味噌煮やシャケ缶をつまみに遅くまで酒を飲んでいました。翌朝、テレビには、トラックをオモチャの自動車のように軽々と運んで行く津波の映像が映し出されていました。京急が動き出すのを待って自宅に昼前に戻りました。

朝の平和を守った男

 【特派員 高尾広志(横浜在住)】 京急のダイヤも、平常化されて車内の混雑も緩和され、Twitterを読めるようになりました。 その日も、iPhoneの小さな画面を見ていると、数メートル先の扉から酔っぱらいが乗ってきました。 手には発泡酒のロング缶を持っています。 朝だと言うのに、だいぶ酔っています。 「そこにいる人、携帯は禁止ですよー。」 「車内マナーを守りましょう。」 ほとんどの人は酔っぱらいの言うことを無視していました。 (酔っぱらいのあなたに、言われる筋合いはない) みんな、そう思っていました。 「その赤い携帯を見ている人、止めろといっているだろ。」 「頭の禿げているじじい、止めねーか。」 「そんなに、仕事やりてーのか。」 だんだん、エスカレートして行きます。 「俺なんか、仕事もねーし、携帯も持ってねー。」 「おめーら、いくら給料もらってるんだ。一千万か。一億か?」 そう言う人は満員電車には乗っていません。 「おらおら、そこの赤い携帯のお兄さん、止めろって言っているのが分からねーか。」 ついに、ひとり一人に注意を始めました。 私はこういう場面になると、全く意気地がないので、言われる前にiPhoneをそっとポケットに隠しました。 酔っぱらいは、上大岡の駅に着く少し前に、若い精悍そうな男の人に言いよりました。 男は全く無視して携帯をいじっています。ヤバいと思いました。 「そこの、にいちゃん。携帯、止めねーか。」酔っぱらいが言ったとたん、男は、酔っぱらいの胸ぐらを掴んで突き飛ばしました。 ちょうど電車の扉が開いて、酔っぱらいは、缶ビールを持ったまま、もんどりうってベンチに倒れ込みました。 男は、この瞬間を狙っていたのだと思います。 「このやろー」 酔っぱらいは、殴り掛かろうとしました。 「きみが、一番迷惑をかけているんだろう。やめろよ。」 (そうだ、そうだ)乗客は、全員心の中で男を応援しています。 押し問答をしているうちに、発車時刻のベルが鳴り、男が電車に戻ると同時に扉がしまりました。 車掌に腕を押さえられた酔っぱらいを駅に残して、電車は静かに走り出しました。 男は車内に戻って、何もなかったように、つり革につかまって携帯に目を落としました。 車内に平和を取り戻してくれたその男

道のそうじの効用

家の前の道は、春になると草が生えて来て放っておくと路肩が草でいっぱいになります。秋になると山の木からの落ち葉で道が覆い尽くされます。ジュースの缶やタバコの吸い殻を投げ捨てて行く人もいます。毎日通る道ですから、汚れていると気持ちが悪いので、いつの頃からか、その道の掃除をやるようになりました。 ワイフから、「そんな事より、自分の部屋の掃除をやってよ」などと言われていますが、道は放っておくと手がつけられなくなるので、ひどい状態になる前に、休日を利用して少しずつ掃除をやっています。実は、道の掃除には楽しみもあるのです。普段はあまり感じない人と人とのつながりを感じさせてくれるからです。 道を掃除していますと、たくさんの人が通ります。中には、迷惑そうに、クラクションをならして猛スピードで通り抜ける車もありますが、「ありがとうございます」「ご苦労様」「助かります」などと、暖かい言葉をかけてくれる人もいます。しばらく会っていなかった中学時代の友達に出会ったり、近くに住むお年寄りに話しかけられて、長話になることもあります。 人の活動のエネルギーの大きな要素は、人とのつながりだと思います。道を掃除する事により、人からエネルギーをもらえます。働くの語源は、傍を楽にするということだということを聞いたことがあります。小さなことでも人の役に立っていると思うと励みになります。いつもやっている道の掃除に、こんな効用があったのかと最近感じましたのでブログにまとめました

クラウドサービスのトラブルからの教訓

私は、任意団体のホームページを作っています。お金がありませんので、全て無料のクラウドサービスを利用しています。先日、会員から、会報をダウンロードできない、というクレームが入りました。広報担当としては、見過ごすわけには行きません。調べてみると、格納した会報のファイルが削除されているではありませんか。仕方が無いので、もう一度アップロードして事なきを得ました。 しかし、少し経つと、また、同じ問題が持ち上がりました。やはり同じファイルが削除されているのです。無料だから仕方が無いのでしょうが、クラウドサービスでこのようなことがあって良いのだろうかと少し憤慨しました。 このイタチごっこが何度か続きました。こんな事がいつまで続くのかと途方に暮れながら利用規約を読んでみますと原因が分かりました。このクラウドサービスは、ハードディスクの使用量には制限がありませんが、一つのファイルの大きさの制限があったのです。一つのファイルは1メガバイトまでで、それを越えたファイルは削除すると書いてありました。そこで、1メガを越えるファイルは、他のクラウドサービスに移しました。 こちらの利用規約を読むと、今度は一つのファイルの制約は無いが、全体の容量制限が二十メガまでと書いてありました。 無料のクラウドサービスには、有料サービスに移行させるための罠が仕掛けててあり、使い続けるためには、この罠をかいくぐって行かなければいけないと言う事が分かりました。そのためには、面倒ですが、利用規程をじっくり読む必要があるということが今回の教訓でした。

これで良いのか日本の相撲

相撲の八百長問題がマスコミを騒がせている。未だに真相がはっきりしない。相撲の八百長は昔から行われており、携帯電話という証拠が残る機械が出て来たために表面化したにすぎないと読める記事もある。 相撲ファンの一人として、本当に、そんな結論で良いのかと思う。相撲は日本の国技である。相撲取りが未だにチョンマゲを結っているのは、単なる飾りではないはずだ。チョンマゲは、武士の象徴である。武士道には、どんなことがあっても決して卑怯なまねだけはやらないと言う鉄則があったと思う。日本人が日本人たり得たのは、この武士道の精神があったからではないだろうか。 アメリカの国技のアメリカンフットボールで八百長があり、馴れ合いでゲームが行われていたとしたら、アメリカの国民は許すだろうか。イタリアのサッカー、イギリスのクリケット、韓国のテコンドーしかり、どれもフェアプレイを大前提にしているのではないか。 「金儲けのためには手段を選ばない」というマスコミの論調を吹き飛ばすように「私は、相撲に命をかけている。金のために八百長などやったことは無い」と言い切って怒り出すくらいの相撲取りが出て来て欲しいと思う。力と力がぶつかり合う、真剣勝負の相撲を早く見たいものである。

メールを早朝に送ったら失礼か?

子どもと風呂に入って九時ころに寝てしまうと、五時くらいに目が覚めてしまう。やおら起きだして、パソコンを立ち上げると、メールが入っている。せっかちな質だから、すぐに返事を書く。これで、今日の仕事も一つ終わったと思う。 このことを、ワイフに話したら、怒られた。そんなに朝早くからメールを出すのは失礼だと言うのだ。携帯電話は、四六時中近くにあり、目覚時計のかわりに使っている人もいるらしい。最近は、パソコンのメールを携帯電話に転送している人も多いという。 私がメールを使い始めてから、すでに二十年以上経つ。メールは、相手の仕事を中断させないで、いつでも送ることができるのがメリットだと教えられて来た。相手が留守でも送っておけば、時間が空いた時に見てくれるという留守番電話的な使い方をしてきた。会社では、相手の仕事をディスターブしないように要件は出来るだけメールで送るように言われて来た。 中学生の娘の携帯電話の使い方を見ると、ほとんどメールで済ませている。件名を書いて、文章を考えてメールを書くと言うようなことはやっていない。話し言葉をそのままメールで送っている。リアルタイムの情報交換をやっているのである。チャットメールである。メールは電話と同じ使い方になったのである。そう考えると、ワイフの言っていることは正しい。 本来のメールとチャットメール、これは全く違う。手紙と電話の違いである。私が書いているのは、前者のメールである。手紙だったらいつ送ってもかまわないだろう。メールの内容で携帯電話を呼び出すかどうかの判断をさせるくらいの機能をクラウドに組み込んで欲しいものである。

時の考察

年末が近くなって残り少なくなったカレンダーを見ると、この前、正月に雑煮を食べたのに、もう1年経ってしまったのかと愕然とする。歳を重ねるたびにどんどん速くなっていくこの時の流れをどうにかコントロール出来ないものだろうかと思っていた。今の時計は、本当に正確に時を刻むようになった。電波時計なら時間を合わす必要もない。こんなに時計が正確になったのに、時の流れが速く感じるというのは、どうも納得がいかない。そこで、時の流れが速くなる原因について私なりに考えてみた。 1)記憶力の衰え 歳をとると、記憶力が衰えるのは確かなことだ。記憶力では子供たちに太刀打ちできない。歳をとると直近の記憶が抜け落ちてきて、昨日食べた昼飯のおかずが思い出せないことがある。しかし、意外に古いことは憶えているから不思議だ。年の暮れになると正月の出来事が夏休みの記憶より鮮明によみがえってくる。そして、結果的にあ〜もう、1年経ってしまったのかとなる。 2)生きてきた時間の長さ 5歳の子供にとっての1年間と40歳の大人の1年間では、1年間の長さの感じ方は8 倍の違いがある。100メートル歩いた後の10メートルと1000メートル歩いた後の10メートルでは、後者のほうが短く感じることだろう。これと同じことが時間でも言えるのではないか。100歳くらいになったときの時間の感じ方を体験してみたいものだ。 3)反応の衰え 子供のときは、速く走れたし,反応も速かった。歳をとると物事をこなしていくスピードや何かを見て判断するまでに時間がかかるようになる。時の流れは一定なので、物事を認識する反応が遅くなれば、相対的に時間が速く流れるように感じる。川の流れにそって歩いているとき、元気で歩くスピードが速いときは、川の流れが遅く感じるが、疲れてきて歩くのが遅くなると流れが速く感じるのと同じことだ。 4)生理的な変化 動物が一生涯に打つ鼓動の数は大体同じだと言われている。ねずみのような小動物は鼓動が速く時の流れを遅く感じ、象のような大型動物は速く感じるらしい。子供の鼓動は大人より確かに速い。小さい子供の胸に手をあてて鼓動を調べると、猛烈な勢いで打っていることがわかる。このことからも、大人になると時を速く感じるのは必然のように思える。 5)好奇心の衰え 子供は好奇心でいっぱいだ。何でも不思議でたまらない。家中の電気製品のボタンを押しまくっ

イタリア人に学びたい

ジャーナリストの嶌 信彦氏の講演を聞いて、これからはイタリア人の生き方に学べ、と言われてから、どうもイタリアが気になりだした。イタリアというと、男は女の尻を追いかけているとか、スリが多いとか、時間にだらしないとか、あまり良い印象はない。しかし、イタリアの熱狂的なファンも多い。ヨーロッパ旅行はイタリアしか行かないなんていう人もいて、どこにそんな魅力があるのだろうか、と思っていたところに、「アモーレの国、イタリア」「イタリア人の働き方-国民全員が社長の国-」という本に出会った。読んでいると、基本的な考え方が日本人と全く違っているということがわかった。 たとえば、日本の会社は昼休み時間が1時間あるが社員食堂で5分で食事をして、後は居眠りをして時間をつぶしている人が多い。食事は仕事をするためのガソリン補給ぐらいにしか考えていない。残業や休日出勤は当たり前。月曜日は定時より30分早く出勤して営業ミーティング。仕事が終わっても飲み屋で仕事の話が続いている。休日は疲れ切ってごろ寝で過ごす。偉くなると接待ゴルフに接待マージャン。日本のサラリーマンの生活は仕事中心に全てが回っている。 イタリア人は、昼食時間が2〜3時間あるだけでなく、ホームメードの料理を食べるために自宅に帰る人が多いということだ。毎日、たっぷり会話や食事を楽しむ。ジョギングも皇居の周りをねじりハチマキで走るようなことはなく、おしゃべりをしながらゆったりと楽しみのために走っている。当然、定時になったらさっさと会社を出てアフターファイブを楽しむ。有給休暇が溜まって消化できないとか、残業という言葉も聞かない。仕事は、生活のほんの一部で決まった仕事が終わったら自分の生活を楽しもうと考えている人が多い。 だからといって仕事が面白くないわけでもない。儲けより仕事の楽しさを重視する。どんなに儲かっても、退屈でつまらない仕事はやりたがらない。だから、経営者も無闇に会社を大きくしようとは思わない。質の高いオンリーワンの分野を追求していく。入社試験でどんなに筆記試験出来ても、会社に入って実現したい夢を持っていない社員は決して取らない。イタリアの経営者の多くは収益を上げることが経営目的の第一義でなく、事業を通して自分の独創的な考えや夢を実現させて地域社会に貢献すること、そして、人生を大いに楽しむことを重視している。 結局、イタリア人は、自