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自己肯定感について考える

① 欧米心理学からの導入(1950~70年代)
英語の self-esteem(セルフ・エスティーム) という概念が心理学で確立される。
esteemは尊敬するという意味を持っている
アメリカの心理学者マズローやロジャースらが「人間が健やかに生きるためには自己を尊重する感覚が重要」と提唱。
マズローの5段階欲求
1.生理的欲求:食事、睡眠、排泄など、生命維持に不可欠な欲求
2.安全の欲求:身体的・精神的な安全、安心な環境を求める欲求
3.社会的欲求(所属と愛の欲求):家族や友人とのつながり、集団に属したいという欲求
4.承認欲求(自尊心の欲求):他者から認められたい、評価されたい、尊敬されたいという欲求
5.自己実現の欲求:自分の能力を最大限に発揮し、なりたい自分になるための欲求
当時は「自尊心」という訳語で紹介され、日本ではまだ専門用語の範囲にとどまっていた。
自尊心とは、「自分を尊いと思う心」、つまり、自分の価値を認め、大切にする気持ちのことです。これは単に「自信がある」こととは異なり、自分の長所も短所も含めて「ありのままの自分を肯定的に受け入れられる感覚」を指す。心理学では「自己に対する全体的な評価」とされ、自己肯定感とほぼ同義で使われる

② バブル崩壊後の社会(1990年代)
日本では「自己犠牲」や「我慢」が美徳とされてきたが、経済停滞・就職氷河期などで「努力しても報われない」若者が増える。
その結果、「自分には価値があると思えない」という感覚が社会的問題として浮上。
教育現場でも「学力よりも心のケア」「不登校や引きこもりの背景には自己肯定感の低さがある」と言われ始める。

③ 子どもの心の問題と教育政策(2000年代)
文部科学省が「自己肯定感」という日本語を公式文書で使い始める。
不登校、いじめ、自殺率の高さなどが問題視され、「子どもの自己肯定感の国際比較」が話題に。
OECDの調査で、日本の子どもは「自分に満足している」と答える割合が先進国で最下位クラスというデータが出て注目が一気に高まる。

④ 承認欲求とSNS時代(2010年代?現在)
SNSの普及で「他者から評価されたい」「いいねが欲しい」という心理が強まり、比較や劣等感が加速。
その裏返しとして「自分を認める力=自己肯定感」がブーム的に語られるようになる。
同時に、書店には「自己肯定感を高める○○」「自己肯定感の教科書」といった実用書が並び始める。

◆まとめると…
“自己肯定感”は、欧米の心理学概念が土台にあり、日本社会が「努力すれば報われる」という神話を失った1990年代以降、生きづらさへの対処語として広まった。

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