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6月, 2011の投稿を表示しています

東日本大震災から3ヶ月(2)

津波の被害に追い打ちをかけるように、福島の原発事故が明らかになりました。そこで、考えさせられたのが「便利さと進歩」でした。 子どもの頃、家には、かまどがありました。薪作りは祖父の仕事、かまどの火の番は子どもの役目でした。真っ黒になって煙突掃除をするのは父の仕事でした。いつ頃からかボタンを押すだけで思い通りの時間にご飯を炊くことができる電気釜が普及しました。電気は便利さの代名詞になり、電気洗濯機、電気冷蔵庫、電気湯沸かし器、クーラー、そしてパソコン、携帯電話などの電気製品が次々と生活の中に入ってきました。電気が、どれだけの時間が生みだし、どれだけ私たちの生活を便利にしてくれたことでしょうか。 しかし、この便利さは、非常に脆弱な基盤の上に作られたものでした。私たちの生活は、電気が止められたら何もできないところまで来てしまいました。しかも、その電気の3割をまかなっている原発は、一度事故を起こすと、コントロール出来なくなり、生き物の生存に影響を与えるという目に見えない放射能を大量にまき散らし、その廃棄物の処理の解決の糸口も見つけられない、危険きわまりない代物だということが分かりました。 今後、原発の安全性を高めて推進するのか、ドイツのように脱原発をめざして、バイオマスや太陽光、地熱発電などの自然エネルギーに転換するのかは、議論の別れるところだと思いますが、電気は無尽蔵にあり使い放題という生活スタイルは、これからは変えて行く必要があると思います。 私は宇宙から撮影した地球の写真をよく眺めます。漆黒に浮かぶ青い地球は本当にきれいです。しかし、このきれいな星は、壊れやすいガラス細工の星でもあることを今回の震災で思い知りました。自分たちの便利さだけを追求するのではなく、人類の真の進歩とは何かを考え、100年先、200年先の子どもたちに禍根を残さない選択をして行くべきだと思います。

東日本大震災から3ヶ月(1)

3月11日、昼休みの散歩を終えて4階のオフィスで仕事を始めた矢先に、それは来ました。ドンと縦揺れが来て、横に変わりました。倒れかけた独楽の軸がぶれるような揺れに変わりました。逃げるとか身の安全を守るとかを考える余裕は無く、ただ自分の体を支えて揺れが治まるのを待つのが精一杯でした。天井が抜けたら、これで終わるという恐怖感がありました。 2番目の揺れが来たときには、外にいました。電線がゆっさゆっさと大きく波打っていました。携帯は全くつながらず、部屋にも戻れず、ただ地面に足をつけているという安心感を得るために集まっていました。オフィスに戻ると、300キロもあるプリンタが1メートルも動いていました。書籍棚からは本が飛び出して散乱していました。テレビは、交通機関が止まっていると言うニュースを繰り返し流していました。 4時頃、帰宅できる人は帰って良いと言う社内放送がありました。歩いて帰るもの、会社に泊まる準備をすすめるもの、バスなどの代替交通機関を利用するもの、それぞれの考えで行動していました。食料を求めて、外に出ましたがコンビニには行列ができており、すでにカップラーメンなどは、全て売り切れていました。仕方なく、行きつけの蕎麦屋でカツ丼を食べました。 その夜は、Twitterで誘われて茅場町の水産会社の子会社に勤めている友人のオフィスで一晩過ごしました。サバの味噌煮やシャケ缶をつまみに遅くまで酒を飲んでいました。翌朝、テレビには、トラックをオモチャの自動車のように軽々と運んで行く津波の映像が映し出されていました。京急が動き出すのを待って自宅に昼前に戻りました。