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人は見た目が9割

人は見かけによらない、外見だけで人を判断してはいけない、と小さい頃から教えられてきた。人は外見より中身が大事なんだ、と自分でも思ってきた。だから、着るものや髪型などに気を使ったことがなかった。しかし、それは、間違っていることに気がついた。 先週、プレゼンテーションスキルセミナーなるものがあった。出席を予定していたものがインフルエンザにかかったので代わりに出ないかと上司に言われた。このようなセミナーには興味がなかったが、高輪の高級ホテルの昼食つきという触れこみにつられて、つい返事をしてしまった。参加してみたら人生観を変えてしまうくらい良いセミナーだった。 参加者は7人で若い女性からメタボのおじさんまでバラエティに富んでいた。初めに全員の前に1分間立たされた。何もしゃべらずに講師も含めて十四個の目にさらされた。1分という時間がずいぶん長く感じられた。それが終わると、講師が、ひとり一人の参加者に意見を聞き始めた。見ただけで私がどんな人かを感じたまま言えというのだ。参加者は全く面識のない人たちだ。外見だけで何が分かるかと思っていたが、かなり当たっていた。初対面の人は私のことを、こんな風に見ているのかと驚いた。 それから、自分で考えたテーマでプレゼンテーションを行い、それをみんなに批判された。これをコーチングと言うらしいが、かなり辛らつなことを言われてむっとしたことが何度もあった。その後に、自分のプレゼンテーションの内容をビデオで見せられた。みんなが言っていたことが当たっていることが分かると顔が赤くなった。こんな風に見られていたのかと思うと本当にショックだった。 鏡で見ていた自分とビデオに映った自分は別人だった。講師の話によると、鏡では、自分を良く見せようと表情を瞬時に変えているのだそうだ。だからビデオに映った姿が本来の姿だと言われてさらにショックを受けた。 外見だけで人をを判断してはいけないが、外見だけでかなりのことが分かるものだ。セミナーに触発されて「人は見た目が9割(竹内一郎・著)」という本を読んだ。ノンバーバルコミュニケーション(言語によらないコミュニケーション)についてかなり真面目に書かれた本だった。そこでは、アメリカの心理学者のアルバート・マレービアン博士の実験結果が出ている。初対面の人が受け取る情報の割合は次の通りだそうだ。 ・話す言葉の内容 7% ・声の質、大

長老から聞いた話(続)

「実は、もうひとつおもしろい話があるんだ」 おじいさんは、話に夢中になって、ごちそうにほとんど手をつけていなかった。 「大道に関所があったのは知っているかな」 「どこかの本で読んだことがあります」 「その関所は、宝樹院の階段を下りて左に曲がって、まっすぐ国道を渡ったあたりにあったんじゃ。今はリホームの店が建っているが、昔は、関所の跡ということで四角く囲ってあったんじゃ。定め書きの板も残っていたんだよ」 「時代劇に出てくるやつですね。見てみたいですね」 「今は、どこに行ったかわからん」 「その関所で捕らえられた罪人が入れられた牢屋の跡が堂山にあったんだよ」 「堂山は、どの辺をさすのですか」 「宝樹院の前の山を堂山と言うんじゃ。昔は、常福寺というお寺があって、そこで管理していた山だと聞いている。そこの山の横腹に洞窟が掘ってあって、そのどんずまりのところが縦に深く抜けていた。そこに罪人を入れたと言われているんじゃ。底免と呼ばれた免税地だと聞いておる」 「今でも、あるんですか」 「堂山は、開発業者に売られて崩されるという話もあったが、景気が悪くなって工事が中断されたと聞いておる。壊されないでよかったよ。戦争中に、防空濠に使っていたから、少し形が変わっていると思うがね」 「そんなものがあるとは、知りませんでした」 「小さい頃は、その中に入って良く遊んだものじゃ。そのとき、日本刀を見つけたこともある」 「えっ、侍が使ってたやつですか」 「かなり錆びていたから古いものだったと思うよ」 「なんか、ワクワクするなぁ」 「わしの子どものころは、こんなことは、珍しいことじゃなかったよ」 「実は、もうひとつ・・・」と言いかけたときに、お開きになった。世の中には、まだまだ、知られていないことがたくさんあるものである。しかし、この話が実話かどうかは定かではない。

長老から聞いた話

最近は、告別式のあとに初七日を済ませてしまう家が多い。先日も、南部斎場の告別式の後に、宝樹院で初七日の法要が行われた。そのあとの精進落としの席上で面白い話を聞いた。献杯の発声がすんで、和やかな雰囲気になった所で、隣りに座った長老が話しかけてきた。 「ふるさと侍従川に親しむ会の会報、いつも読ませてもらっているよ。”私が子どもだった頃”という話がおもしろいね」 「おじいさんも会員なんですか」 「そうなんじゃ。私は、ここに一世紀近く住んでいる。古い話に興味があるのなら、珍しい話を聞かせてあげよう。どこにも書かれていない話だよ」 「ぜひ、おねがいします」 「大道の地形は、戦争で大きく変わったんじゃ。六浦から大船に抜ける道は、戦争の物資を運ぶために作られたんじゃ。それまでは、畑の中をくねくね曲がる道だった。昭和15年頃に軍隊が強制的に地主から土地を取り上げて今の道路を作ったんじゃ」 「ひどい話ですね。まるで北の方のどこかの国みたいじゃないですか」 「そんな時代じゃったんだ」 「どこに、何を運ぶ道だったんですか?」 「実は、その先に、山をくり抜いた兵器工場があったんじゃ」 「なんだか、映画やマンガに出てくるような話ですね」 「本当の話だよ。厳重に監視されていたので中には入ったことはなかったが、入り口から覗いたことがある。遠くがかすむくらい広い工場だった」 「何を作っていたんですかね」 「詳しいことは分からないが、近くには兵器を作っている会社がたくさんあったから、そこに部品を供給していたんだと思うよ」 「その兵器の部品を運ぶために道路だったんですね」 「そうじゃ」 「終戦になったときに、そこから兵器を作る材料を持ち出して大儲けしたやつもいたんだよ」 「そりゃ、泥棒じゃないですか」 「戦後の、ごたごたの時は、そんなことは言ってられないんだよ。早いもの勝ちで、先に見つけて売りさばいたものが勝ちだったんだよ」 「山をくり抜いた兵器工場は、今でもあるんですか」 「埋め戻したということは聞いていないので、今でもそのままだと思うよ。」 「見てみたいですね。入り口はどのあたりにあったんですか?」 「この先に相武隋道という長いトンネルがあるのを知っているね。実は、そのトンネルの中ほどに兵器工場の入り口があったんじゃ」 「えっ」 「今は、入り口はセメントでふさがれているが、あの辺りの山の中はガラン

クラウドに出会った日

家のパソコンのディスプレイが壊れたのでネットで液晶ディスプレイを買った。3万円足らずで23インチのディスプレイが買えた。今までは17インチなので随分広くなった。ブラウザを立ち上げても右の部分が余ってしまって何かに使えないものかと考えていた。 そんな時に、ブラウザをOPERAに入れ替えてみた。今となってはブラウザなんかどれでも変わらないじゃん、と思っていたのだが、さにあらん、使い勝手が良い。動きがスムーズだ。北欧のIT技術はすごいと感心しながら使っていた。 メニューにウィジェットというのがあるので使ってみた。ウィジェットとは、小さなアプリケーションで、昔はユーティリティとか言われていたものだ。AppleIIや初期のマック用に、このようなアプリがフロッピーで流通していた。このウィジェットが面白かった。 NewYork CAMというのを使ってみた。ニューヨークに設置されているライブカメラで人の動きや車の通りがリアルタイムで映し出されている。今でも見ているが、現在、ニューヨークは午後の5時すぎで、かなりの人通りがある。5秒おきに町の様子が映し出されている画面を見ていると、ニューヨークのホテルに滞在して窓から外を眺めている感じである。 NHKの世界ふれあい街歩き( http://www.nhk.or.jp/sekaimachi/ )というのが好きでよく見ているのだが、そのリアルタイム版だ。こんな映像が世界中から送られて来たら楽しいだろう。インターネットが始まった時に、ケンブリッジ大学のコーヒーポットが有名になった。大学の研究室のコーヒーがどのくらい残っているかをリアルタイムで世界に公開していたのだ。その時の興奮がよみがえってきた。 次に、Flicker PhotoFrame Widgetというのを試してみた。Flickerというのは、写真を共有するコミュニティサイトだ。YUTUBEの静止画版だ。登録された写真にはタグが付いていてカテゴリ分けされていると言うのがミソだ。タグをキーにして検索ができる。このウィジェットにも検索の機能がついていて、例えばCATというキーを指定すると猫に関する写真が次々に表示される。CHAILDと入れると世界中の子どもたちの写真がでてくる。MOUNTAINと入れれば素晴らしい山の写真が見れる。これにも、はまった。 20年以上前に初期のMacやUNIXに

カンフーパンダ

近くの関東学院大学のふれあい夏祭りで、カンフーパンダという映画の上映があったので見て来た。子どもたちは、ひょうきんなパンダの演技にお笑いで大満足だった。 舞台は、中国の桃源郷の平和の谷。そこを荒し回る極悪非道なタイ・ランを倒すカンフーを選ぶための選考会でメタボで食いしん坊のラーメン店の息子のパンダのポーが選ばれた。カンフーの厳しい修行について行けず、最初は弱気のポーだったが、秘伝のラーメンのタレなんて本当はないと言う親父の言葉がポーに何かを気づかせる。厳しい修行をして強いカンフーになるというロッキーのような話かと思いきや、最後までメタボで食いしん坊のママでいながら、強敵のタイ・ランを倒してしまうというストーリであった。 大切なことは、誰かのまねをすることもなければ、必要以上にムリをすることもなく、ありのままの自分を信じて一生懸命やることというのがメッセージになっていた。カンフーの秘伝が書かれた巻物には何も書かれていなくて自分を映す鏡になっているところや、ゾウガメのウーグウェイ導師がひたすら言っている「ただ、信じるのです」がメッセージの伏線になっている。 スティーヴン・スピルバーグ率いるドリームワークスの作品だけあって奥深いものに仕上がっていて大人にとっても十分楽しめる内容であった。夏の終わりに平潟湾で見つけた掘り出し物であった。

▶ネットで覆った競艇の場外売場の建設

金沢八景の駅を出て、横断歩道で国道16号線を渡った所に、真鶴会館というレストランが入っていたビルがある。今は、真鶴会館を経営していた相生も出てしまって、1階でケンタッキーだけが営業している。ケンタッキーも8月一杯で閉めるようだ。そのビルが老朽化して取り壊しになる。 その跡地に、ボートピアという日本財団がやっている競艇の場外売場ができるということが発覚した。どうやら、近隣だけで話し合いが進んでいて、少し離れた住民や教育機関には内緒で進められていたらしい。近隣の商店は賛成している人もいたらしい。  その4回目の説明会が8月27日に瀬戸の集会所で行われるということがネットで広まった。その結果、ずいぶん、たくさんの人が集まったらしい。高校や大学もあり学生の通り道に遊興施設が出来るのは、教育上、好ましくないという理由で金沢八景駅を利用する住民やPTAの反対で白紙撤回されたということがブログで紹介されていた。 (http://blog.spiceclub.info/?eid=1066305#sequel)    インターネットで調べてみたら、ボートピアについては全国各地で反対運動が起っていて中止になっているところが多い。個人情報の漏えいが問題になっているが、今回は、ボートピアを建設するという情報がネットに漏れたことで覆ったという象徴的な住民運動だ。ネットの普及が住民に力を与えたことは確かだが、逆に悪用してネット上で発言力がある人だけが暴走することは避けなければならない。

お盆でのひと騒動

お盆になると、どこの家でも、盆の入りの日に迎え火を行い、出の日に送り火を行うのが習わしになっている。ところが、私の菩提寺の宗派である浄土真宗は、このお盆の行事をやらないのだと言う。むしろ、お寺としては禁止しているということを住職から言われた。理由は、浄土真宗は霊魂の存在を否定しているからだと言う。 浄土真宗の作法には、その他にも特殊なところがたくさんある。火をつけた線香は、短く折って線香立てに寝かせる。塔婆というものがない。ご霊前という香典袋も禁止で、使うのはご仏前だけだ。葬儀のときの清めの塩もない。因習、迷信、祈祷などはできるだけ排除するという考え方だ。合理的だが一般的な慣習からはずれたところもある。 迎え火、送り火をやっていないということを義父に話したら怒られた。先祖を粗末にするとバチが当たるから、ちゃんとやれというのだ。女房の実家のお寺は真言宗で毎年、本格的に迎え火、送り火をやっている。住職からは禁止され、義父からはやれと言われ板ばさみで困っていた。 女房に相談したら、浄土真宗でもお盆の時は、法話をやって檀家からお布施を集めているのだから迎え火、送り火くらいやっても良いんじゃないの、ということを言われた。さもありなん、わが家でも来年から住職には内緒で送り火、迎え火をやるということで話がまとまった。無宗教と言われている日本人だが、生活に溶け込んだ宗教的なものはかなり多いのではないかと思った。

かけがえのない地球

4ヵ月半もの間、宇宙に滞在して若田さんが宇宙から帰って来た。地球の重力圏から離れて漆黒の宇宙に出たときどんな考えが彼の脳裏に去来しただろうか。酸素も水もない生きものの住めない暗黒の世界。一歩間違えれば宇宙のかなたに飛んでしまうだろうし、エンデバーや宇宙服が故障すればそれまでだ。マイナス思考で考えたら、いくらでも絶望する種がある。4ヶ月以上も希望を持ちつづけられた強靭な精神力に脱帽する。 「ハッチを開くと草の香りが機内に流れこみ、地球に優しく迎えられた気がした。吸いこまれるような奥深い宇宙に青く浮か故郷の素晴らしさ。うすい大気の層がやさしく地球を包み込んでいる様子を見て、自分もかけがえのない地球の環境を守らねばと思った」 これは、地球に戻った若田さんが記者会見で言った言葉だ。広大な宇宙の中で生き物が見つかっている星は今のところ地球だけだ。私たちは空気だって水だっていくらでもあると思っていた。放っておいても草は育っていく。そんなことは当たり前だと思っていた。しかし、宇宙から地球を眺めると、それは非常に稀なことなのだということが分かった。もし、水や空気がなくなったら、大地から草が生えなくなったら、いや、そんなことを考えるのはやめよう。永遠と希望いう言葉を信じよう。

草刈りと蚊

この季節になると草の伸びが速い。家の小さな庭も放っておくとすぐに草に覆われてしまう。休日は、草刈りに時間を取られる。草を刈っていると葉の下に潜んでいた蚊が一斉に出て来て攻撃を始める。これは、たまらんと思って虫除けのスプレーを露出している体に吹きかけて仕事を始めた。どんな成分か分からないが、このスプレーは良く効いた。 しかし、しばらくすると顔や首筋、耳のあたりを蚊が攻撃し始めた。匂いがあるので顔だけはスプレーをかけなかったのだ。このとき、どこかで読んだ耳なし芳一の話を思い出した。平家の武士たちの生霊から身を守るために体中に般若心経を書いたが耳に書くのを忘れたために、耳を切られた琵琶法師の話だ。耳なし芳一の作者も蚊にやられた経験からこの話を思いついたのかも知れないと思った。 そんなに苦労して草刈りをするなら、砂利でも敷いて草が出ないようにすれば良いという合理的なアドバイスをしてくれる人がいるが、それを実行しようとは思わない。邪魔だからといって草や蚊を駆逐してしまったら、それはそれで寂しくなるのではないかと思う。邪魔でも刺されても、小さな地球の上で何億年もかけて生まれてきた植物や動物だと思うと愛おしい。そんな奴らとこれからも付き合って行きたいと思う。

電車に乗ったら携帯電話の電源を切ろう

杖をついた50歳くらいの人が、品川駅から乗って来た。私はシルバーシートに座って本を読んでいた。隣の席が空いていたので、当然、座るのかと思ったら躊躇している。しゃがみ込んだり、顔を歪めて胸の辺りを叩いたりしている。すると、その人は、突然、演説をするような口調でしゃべりだした。 「みなさん、健康な人には言っても分かってもらえないと思いますが、私は、心臓にペースメーカーを入れています。携帯電話の電源が入っていると調子が悪くなりますので、ここでは電源を切ってください」 メールをやっていた人は一斉に電源を切った。その男の人は、シルバーシートに座った。新橋の駅で、人が入れ替わった。今までの状況が分からない人が、メールを始めた。男の人は、顔を歪めて胸を押さえながら「やはり、私は逃げるしかありませんね」とみんなに向かって捨て台詞を言ってから電車を降りてしまった。 「社内では携帯電話をマナーモードにしてください。シルバーシートでは電源を切ってください」としつこいほど車内放送が流れている。でも、シルバーシートで電源を切っている人は少ない。携帯電話が,どこでもつながるのは、移動しても定期的に基地局に自分の位置を教えているからである。通話や着信がなくても定期的に電波を発している。その電波がペースメーカーに悪影響を及ぼすのである。車内放送ではそこまで説明しない。放送している駅員は理解しているのだろうか。ほとんどの人は、そのことを理解していないのだと思う。 自分がペースメーカーを使う立場になってよく考えて行動すべきだと思う。私は、これからは、電車に乗ったら携帯電話の電源を切ろうと思う。電車に乗っている時間くらい携帯電話から解放されたって良いじゃないかとも思う。

「WINNERS & LOSERS(勝者と敗者)」

インターネットに「WINNERS & LOSERS」という文章が載っていたので、稚拙な英語力で訳してみた。勝者になるのは難しい。 WINNERS & LOSERS(Anonymous) 1.A winner says, "Let's find out" a loser says, "Nobody knows." 勝者は、もっと良い方法はないかと言う。敗者は、そんなことは誰でも知っていると言う。 2.When a winner makes a mistake, he says, "I was wrong", when a loser makes a mistake, he says, "It wasn't my fault". 勝者は、ミスを犯したとき素直に非を認める。敗者は、私のせいではないと言う。 3.A winner knows how and when to say "Yes" and "No"; a loser says, "Yes, but" and "Perhaps not" at the wrong times, for the wrong reasons. 勝者は、「はい」と「いいえ」を適切にはっきりと言う。敗者は、「そうなんですが」とか「そうかもしれないね」とあいまいに受け答えをする。 4.A winner isn't nearly as afraid of losing and a loser is secretly afraid of winning. 勝者は、負けることを恐れない。敗者は、勝つことに腐心している。 5.A winner works harder than a loser, and has more time; a loser is always "too busy" to do what is necessary. 勝者は、人一倍働いているのに時間が余っている。敗者は、いつも忙しがっていて、常に時間がたりない。 6.A winner goes through a problem; a loser goes ar

川を見て考えたこと

家の近くに侍従川という名の川が流れている。浄瑠璃にも出てくるが照手姫の乳母の侍従が入水した川として知られている。川の中程の所が深くなっている。生活用水を流すために大きな土管があり、そこからの水が川底をえぐったためである。そこにたくさんの鯉がいる。人に馴れていて、人が近づくと水面に集まっ口をぱくぱくさせる。 色がきれいなのや黒くて太ったのやら、いろんな鯉がいる。その中に背骨が曲がった鯉がいることが分かった。よく見ると1匹ではない。背骨が曲がったやつは、何だか元気がなくて、いかにも病気の鯉という感じである。インターネットで調べると、日本中の海や川で捕れる魚の中に同じように背骨が曲がったのがいるらしい。市販されている殆どの洗剤に含まれている界面活性剤という物質が原因らしいということが書いてあった。 界面活性剤は石油から合成されている。原料が安くて製造がしやすいので安く作れるのだろう。同じ値段で売るのなら原料費が安い方が企業は儲かる。企業が利益を追求する経済活動は悪いことではない。しかし、商財として優れている界面活性剤が生き物にとって害があるものであるのなら、それは、本当に悪いことではないのだろうか。経済を辞書で引くと「国を治め人民を救うこと」と書いてある。金を儲けることだけが経済活動ではないはずだ。 事故米や原材料や生産地の虚偽の表示の問題が表面化してから商品の表示は正確になった。透明性がでてきた。今度は、消費者が正しい表示を理解して本当に買っていい商品とそうでない商品を見分ける賢さを身につけるべきだと思う。有毒な洗剤を直接口にするものはいないだろう。しかし、自分たちが買って、自分たちが使って、自分たちが垂れ流した有毒な洗剤が巡りめぐって自分たちの口に入るのかと考えると、なんとかしたいものである。 まずは買わないという選択から始めたい。安さを基準にするのでなく、中身を基準にして消費者が買うようになれば,自然に悪い商品は淘汰されて行くであろう。それが、次の神の見えざる手になってもらいたい。

メタボリックシンドローム対策の報告

2月にメタボリックシンドローム予備軍と言われて医師の指示を受けてから3ヶ月が過ぎた。経過報告のために診療所に行った。結果は、体重3キロ減、腹回3センチ短縮、血圧20mmHg減と3ヶ月前に目標にしていた値をほぼクリアした。今まで自堕落な生活をしてきて何度も挫折を味わって来た自分にとっては快挙であった。予想以上の良い結果で面談した医師も驚いていた。 今回、なぜ目標が達成できたかを考えると100歳近くになっても現役で元気に医師を続けている日野原重明さんの著書を読んで、自分も、あんな老人になりたい、というToBeモデルを描いてそれに向けて努力したからだと思う。 物事を達成するためには、何のためにやっているのか(Why)、そのために何をやるべきか(What)、どのようにやるべきか(How)が必要と言われているが、その中でもWhyが重要であることを痛感した。今回のWhatとHowを公開すると以下の通りである。 ・お菓子や飴などの間食をやめた ・晩酌や寝酒の日本酒やビールをやめた ・バスに乗らずに1日1万歩以上歩くようにした ・エスカレータを使わずに階段を歩くようにした 面談の最後に標準体重まで落とした方が良いのでしょうかと医師に質問したら、体重を気にしすぎないで健康のために良い習慣を身につけることが重要と言われた。

虹を見た

6時に仕事を終えて、大井競馬場から競馬通りを西に向かって歩いていた。真正面のビルの谷間に大きな太陽が沈みかけていた。立会川へ出るために、横断歩道を渡ると歩道橋の横でスーツ姿のサラリーマンが3人、空を見上げていた。何だろうと思って、同じ方向を見ると、絵に描いたような見事な虹が出ていた。東の空一面の巨大な虹だった。思わず携帯で写真を撮った。 虹を見たとたん、嫌なことや面倒なことを全く忘れて、しばらくの間、見入ってしまった。巷のチマチマしたことは、どうでも良いように思えて来てしまった。立会川の駅前に行くとみんな虹を見ていた。みんな幸せそうな顔をしていた。自慢げに道行く人に虹の講釈をしている人もいた。 京急に乗っても名残惜しくて、見えなくなるまで虹を見ていた。畏敬の念を持って自然と向き合っていた古代の人の心を垣間見たような気がした。

僕の好きな先生

忌野清志郎さんが亡くなった。派手な衣装で舞台を飛び回る姿が印象的だったが、最初に聴いた曲で好きな曲が「僕の好きな先生」だった。「タバコ〜を吸いながら、いつでもつまらなそ〜うに・・・」から始まる、あの曲である。 というのは、中学校にその先生と重なる美術の先生がいたからだ。風貌が、はげ頭をトレードマークにしていたコメディアンの「デンスケ」に似ていたので、デンスケとかデンちゃんと呼ばれていた。ひたすら絵を描かせたり粘土細工をやらせたりする先生で、授業中にどもってしまって途中で悪い生徒に言い負かされ、そのまま授業が終わってしまったこともあった。職員室が嫌いで、いつもホコリっぽい美術室でタバコを吸っていた。 うだつの上がらない先生だったが、絵を描かせたらものすごくうまかった。昔は、有名な絵描きだったが、どんな理由があったか分からないが、肩書きも名誉も家族も捨てて田舎の中学校の美術の教師になったという噂があった。今でも同窓会に来てくれるが、抜群に人気がある。 1972年のヒット曲だそうだ。この曲を聴くたびに、デンスケのこと、中学時代のことを思い出す。何十年も私の記憶の中で生きている。私にとっては非常に貴重な曲である。ありがとう。

ケセラセラ

知人のブログに「ケセラセラと生きよう」と言うことが書いてあった。ケセラセラの語感が面白いので調べてみた。同名の曲を懐メロでペギー葉山などが歌っていたが、元々はアメリカの女優のドリス・デイがヒッチコック映画「知りすぎていた男」(1956年)で歌った曲である。 Que sera, sera ケセラセラ Whatever will be, will be 何事もなるようになるのよ The future's not ours to see 未来のことなど予測できないわ Que sera, sera ケセラセラ What will be, will be 自然の成り行き次第よ (出典 http://mizumizu.jp/queserasera/archives/2004/1126004137.php) アメリカの歌だが、いかにも陽気なスペイン人が考えそうな歌詞である。くよくよ考えても仕方がない。それよりも、現実を見つめて前向きに楽しく生きて行こうと言っている。この曲がもう一度聞きたくなった。

読むことは書くこと

インターネットが始まる前のパソコン通信の時代にROMという略語があった。Read Only Memberの頭文字をとったものである。読んでばかりいて、少しも発言しない人のことを揶揄して行った言葉だ。今は、ブログなどができて、書く人はずいぶん増えた。それでも、書いている人は読んでいる人の1割にも満たないのではないだろうか。 書かない人は書けないと思っていることが多い。小説の対談などに、天からの声に導かれる様に文章がすらすらと頭の中から湧き出て来た、というようなことが書かれていると、凡人の自分には文章は書けないと思ってしまう。歴史に残るような文章は書けないだろうが、普通の文章は、書き始れば誰にでも書けるのだ。逆に、宝くじを買わなければ当たらない様に、書き始めなければ絶対に書けない。 とにかく、書き始めること。書き始めてみると文章の不足に気づく。そこを埋めて行く、続きを考える、埋めて行く、これを繰りかえしていくと自然と文章ができていくものだ。書くことにより考えが導きだされて行くのである。畑で芋のつるをたぐって行くと、根に付いている芋が、次から次へと面白いように採れるのと同じことだ。 もう一つ、書き手は読み手だと言うこと。書くことは不足を埋めて行く行為であるのなら、読むことは書き手がどのように不足を埋めたのかの足跡をたどる行為である。ただ、漫然と読むのでなく、次に来る文章がどんなものかを考えながら読む。自分の考えが当たっても外れても読むことが楽しくなる。読みのモチベーションがあがるのである。読むという行為で書く練習をしているのだ。 今まで書いて来た文章は、実は文末に書かれている本の受け売りである。実際に私がこのブログを書けたことでも証明されたように、文章は人の書いた物を咀嚼し消化することで書けるものである。小説家などの物書きは膨大な量の本を読んでいる。それを取り込んで自分のものにして文書を書いている。 木は根からの水や養分を吸収し、それに太陽光を与えて光合成でエネルギーで生きている。同じように文章を書くためには、書くための養分になるものが必要だ。それは実際に経験したり本を読んだりして得た知識である。 この本は、文章を書きたくても書けないと思っている人におすすめの一冊である。 【参考】 800字を書く力 著者:鈴木信一 祥伝社新書 740円

夏はビールか?

汗をかいた後のビールが旨いと言うことで、昔は良くビールを飲んでいた。最近、メタボ対策でビールや酒はカロリーが高いという理由で控えていた。止めてみると、タバコと同じでそれほど飲みたいとは思わなくなった。何を飲んでいるかと言うと水である。汗をかいた後にビールがうまいのは、乾いた体が水を要求しているのであって、決してビールだけが旨いわけではないと思えてきた。冷蔵庫で冷やした水でも十分に旨いのである。 汗をかいた後のビールが旨いと言うのは、テレビなどのコマーシャルによる洗脳ではないかと思う。俳優が「汗をかいた後のビールが旨い。夏はビールだ」と旨そうにビールを飲むコマーシャルを見せられていると、パブロフの犬ではないが、夏になって、汗をかいたらビールを飲まなければいけないと頭が自動的に反応してしまうのではないかと思う。 酒屋さんには申し訳ないが、体を動かして汗をたくさん流した後は、冷たい水が一番旨いのである。

宇宙規模で考えると・・・

地球が宇宙に中に誕生したのは46億年前と言われている。10億が1ギガ(G)であるので4.6G年前である。ひと昔前は256バイトのメモリでも貴重だったのに、今では1GバイトのUSBメモリが1000円で買える時代になった。ギガという単位もそれほど大きな数とも思えなくなった。そこで、IT業界でなじみのある単位で地球の歴史を概観してみると次のようになる。 生命の誕生は4G年前で、恐竜が生まれたのが190M年前、人類の誕生は2M年前である。農耕が始まったのが11K年前、産業革命は250年前、自動車の発明が120年前、石油が本格的に使われ始めたのが80年前、コンピュータの発明が70年前、私が生まれたのが50年前、インターネットが始まったのが40年前、地球温暖化が騒がれ始めたのが20年前である。 地球が危機だと騒いでいるが宇宙規模で考えると、本当に最近のことで小さなことのように思える。太陽は、今後も5G年間(50億年)くらい輝き続けるそうである。太陽の恩恵をうまく活用している限り、地球は生き続けることができるのである。人類の歴史に比べると無限と言える時間である。数百年と言う短い時間だけ見て悲観的にならずに、ケセラセラと宇宙規模で楽観的に考えて行くべきだと思う。

プラスチックとゴミ

プラスチックと言うものは、20世紀最大の発明の一つだろう。スーパーのポリ袋やペットボトルだけでなく、パソコン、家電製品や自動車、建物などほとんどのものに使われている。経年変化が少なくて腐らない、しかも、軽くて安い。 この便利きわまりないものが、ゴミ問題として困ったものになっている。プラスチックが発明される前は、木とか竹、金属、鉱物などが使われていた。それらは、溶かして何度も使ったり、燃やしたり、腐らせたりすれば土に戻った。人は他の生物と同じ様に自然の物質循環の中で生きていた。 プラスチックは、腐り難くていつまでも土にもどらない。燃やせば有毒なガスが出る。再生して使うにはコストがかかる。こんな厄介なものはやめて昔のように自然のものを使おうと思っても,今となっては不可能に近い。 それでは、どうしたら良いのか。そもそも、プラスチックは安定な物質なので、使い捨てはやめて大事に使うようにする。もう一つは、プラスチックを自然の物質循環の中に戻せる仕組みを開発して自然にとって無害にしてしまうことである。 子どもの頃には、遊んだ後は片付けをちゃんとやるように言われた。それと同じ様に、人類もプラスチックを使って十分に遊んだのだから、その後片付けをやる時期に来ているのではないかと思う。

便利なトイレの電灯なんかいらない

トイレの電灯が切れた。家を施工した会社に電話すると部品がないので3万円かかるという。家の電灯はドアが開くと自動的につく仕組みになっている。この方式は古いので、今は人をセンサーが感知して自動的に電灯がつく様になっているのだという。だから、古い部品は置いていないのだと言う。 普通に考えると電灯の修理などは数百円で電球を交換すれば済むはずだ。スイッチを押せば明るくなる、それで良いのである。これ以上、便利になる必要などない。今のドアが開くと自動的につくトイレの電灯も施工業者が勝手に付けて行ったものである。それより、確実に動作して壊れない、維持管理にコストがかからないシンプルなものの方が利用者にとってはありがたい。 今の世の中、このような過剰なサービスが横行して、それにお金を払わされていることが多いのではないかと思う。この便利なトイレの電灯はユーザの利便性より企業の収益性を考えた製品にしか思えない。60年代に人類が理想としていた利便性を追求した物質文明が見直され「もったいない」が復権してきた現在、製品開発の姿勢を見直す時期に来ているのではないかと思う。

メタボリックシンドローム対策を楽しむ

会社の健康診断でメタボリックシンドローム予備軍と言われてしまった。どこかのテレビの台詞ではないが、このまま放っておくと大変なことになりますよ、と脅かされた。私の場合は、腹回りと高血圧が指摘された。 血圧について聞いてみると、こういうことらしい。モーターを心臓に、ランプを血管に例えると、高血圧の人はランプがたくさんぶら下がった状態だという。モーターはランプに電力を供給するためにフル回転しなければならない。そのためには送電線に過剰の電流が流れて、最後は血管がぼろぼろになり心筋梗塞や脳梗塞を起こすのだと言う。メタボの人は、ランプがたくさん灯った状態、それが、余分な脂肪や贅肉なのだそうだ。これを落として心臓の負荷を減らしましょうと言われた。 担当の先生が随分親切な人で、メアボリック対策のカリキュラムを組んでくれた。目標は5月までに3キロ体重を落とすということだった。対策は、食べ物を減らして運動を増やすと言う非常にシンプルなものだった。間食は止めてご飯は7分目にする、一日に一万歩は歩くということになった。誕生日に子どもたちからもらった万歩計が役にたった。 腹が減った時には水を飲む様にした。水はカロリーがなく、老廃物を排出するのに役立つので良いそうだ。2リットルは飲む様になった。昼休みは気分転換を兼ねて歩くようにした。いつも乗っていたバスを止めて駅まで歩くことにした。 まだ、ひと月だが、すでに2キロくらいの減量ができた。バンドも3センチくらいつめただろうか。確実に効果がでている。体重が減っただけでなく、夜、良く眠れる様になった。また、通じも良くなった。快食、快便、快動、快眠が健康の秘訣と言うが、これが実践できている。お金は、全くかかっていない。むしろ、おやつ代、バス代がかからなくなって出費は減っている。燃費が良くなってきたと感じる。 養生訓にこんな一節がある。 「しかるに、養生の方法を知らないで、欲にふけり身を滅ぼし、命を失うことは最も愚かなことである。生命と私欲との軽重をよく考えて、日々の生活を慎み、私欲の危険性を恐れること、深淵にのぞむような、薄氷を踏むよう細心の注意をはらって生活すれば長生きもでき、災難をもまぬがれるであろう」(講談社学術文庫・養生訓から抜粋) これからは、自分の体の環境アセスメントをやりながら、メタボ対策を生活習慣として定着させたいと思っている。

日々の生活で心がけたいこと

会社には、社是がある。家には家訓がある。私も日々の生活で心がけたいことをまとめてみた。 1.考えても仕方がないことは考えない 2.どんなことでも良いように考える 3.小さなことからとにかく始めてみる 4.自慢話や他人の悪口を決して言わない 5.嘘をつかない知ったかぶりをしない 6.他人をうらやましいと思わない 7.つらいことに遭ったら勉強だと考える 8.誰にでもあいさつをきちんとする 9.あれこれ迷ったら難しい方を先にやる 10.家に上がるときはきちんと靴を揃える 11.自分から率先して掃除をやる 12.見た目や肩書きで人を判断しない 13.ものをしまう場所を決めておく 14.いらない書類はすぐに始末する 15.手紙やメールの返事はすぐに出す 16.思いついたらすぐにメモをする 17.歩いて行ける所へは歩いていく 18.いつでも字をていねいに書く

超音波洗浄機とモンブラン

父の友だちから手紙が来た。父は亡くなっているので代わりに返事を書かねばならない。差し出し人はかなり達筆だ。大正生まれの父の友人ということはかなり高齢に違いない。ワープロで返事を出すわけには行かない雰囲気だ。熟慮の結果、万年筆で書くことにした。 自慢ではないが、私はモンブランを持っている。しかも、松本清張が持っていそうな極太のやつだ。婚約指輪のお返しに妻からプレゼントされたものだ。その頃、小説家にあこがれていて、どうしても欲しかった。しばらくは書き味を楽しんでいたが、すぐに飽きてしまって長い間、机の奥にしまいこんだままになっていた。 何年も引き出しに入っていたモンブランはすっかりひからびてしまっていた。インクを入れてみたが、どうも、インクの色がうすい。インク壷を見ると底に黒いものが沈殿していた。色素が分離して溜まったものらしい。近くの文房具店にパイロットのインクを買いに走った。 パソコンで文章をつくって、それを万年筆で清書した。昔は、ワープロが清書機に使われていたが、その逆をやっているわけだ。無駄なことをやっているがしかたがない。最初は調子良く書けていたが、モンブランがすぐにかすれてしまうのだ。一行書くとインクを付けなければならない。小説家がモンブランを愛用しているのは、かすれずにいつまでも書きつづけることができるからだと聞いたことがある。どうした、モンブラン。 モンブランと故障をキーにしてネットで調べてみたら、日本のモンブランの支店に持っていったら国内では直らないので、ドイツに送られて修理されて戻ったときに莫大な修理代を請求されたというブログがあった。もう少し調べてみると、万年筆を超音波洗浄機で洗うとインク詰まりが直るという話が出ていた。万年筆の洗浄、1回、500円というサービスもあった。アマゾンで調べると3000円代で超音波洗浄機を売っていた。 早速、夜中に内緒で買うと2日後に届いた。便利な世の中になったものだ。早速モンブランをかけて見た。チーという虫の鳴くような音がして黒い小さなかすがたくさん出た。古いインクビンの底に溜まっていたのと同じもものだ。インクのカスなのだろう。少し、日陰干しにしてからインクを入れて使ってみたが、すこぶる調子が良い。モンブラン復活である。大満足であった。 妻は、あきれ返ったような顔で超音波洗浄機を見て何か言っていた。3000円出したら良

落ち葉掃除

手紙は放っておくとドンドンたまって行く。中には役所からの重要な手紙からDMのようなものまで含まれている。それを整理するのは大変で気が重い。でも、毎日来た手紙をすぐに開封して、いらないものは捨てる、いるものは整理箱に入れる、ということをやっておくと、あまり苦労しないで手紙の整理が出来る。というより、手紙を整理するという気が重い仕事自体がなくなる。 このように、面倒だから、とりあえず保留にしてたまってからやろう、というバッチ処理をやめて、リアルタイムの処理に切り替えることで随分楽になる。落ち葉の掃除も同じで、ためてしまうと大変なことになる。休みの日に少しずつやることにした。2時間くらいはかかるのだが、落ち葉を拾ってきれいになった庭や道を見るのは気持ち良い。それでも、毎週、ビニールのゴミ袋に5〜6個分は捨てることになる。 この仕事を洗濯物を干しながら2階から見ていた妻からクレームが入った。ゴミ袋を使いすぎるというのだ。最初は、けちくさいことは言うなと思ったが、確かに落ち葉掃除だけで毎週こんなに袋を使うのはもったいない。そこで、落ち葉の堆肥を作ったらどうかと考えた。今度は、落ち葉を醗酵させて土に帰すと言うリサイクルに挑戦することになった。

KingSoft Office2007

PTAの役員の推薦委員をやっていた妻が、やり手がいないという理由で自分でPTAの役員になってしまった。これがミイラ取りがミイラになったというのだろう。役員の仕事はパソコンを使うことが多いらしい。年がばれてしまうが妻は昔ワープロ専用機のスクールに通っていたことがあるらしい。しかし、パソコンのことが全く分からない。PTAのパソコンにはワードとエクセルが入っていて、それが使えることが大前提らしい。 そこで私にワードとエクセルの使い方を教えて欲しいという白羽の矢が立った。だが、家のパソコンにはワードもエクセルも入っていない。インターネットで買ったDELLのノートパソコンが7万円なのに5万円もするマイクロソフトのオフィス(以後、MSオフィス)を買うのはナンセンスだからだ。古くからのMacファンゆえマイクロソフトが大嫌いということもあり、今まで、その会社のソフトを自腹で買ったことがないのだ。 仕事ではワードやエクセルを使っているが、家では無料のオープンオフィスなるものを使っていた。機能的にはMSオフィスと同じなのだが、使い勝手が全く違うし動きもぎこちない。今回は、妻にMSオフィスの操作を教えるのが目的なので使い勝手が違うオープンオフィスでは用が足りない。大枚を払ってマイクロソフトの軍門に下ろうかとも思ったが、それもしゃくに触る。 新しいOffice互換ソフトが出ていないかグーグルで調べてみたらKingSoftと言う中国の会社がKingSoft Office2007という紛らわしい名前のソフトを出していた。KingSoftという名前は前から知っていたがオープンオフィスに毛の生えたようなものだろうと思っていた。あまり期待もせずに30日間の無料お試しソフトをダウンロードして使ってみた。 インストールを終えてKingSoft Office2007 Writerというワープロを立ち上げてみた。出てきた画面に驚いた。デザインは洗練されていないが、ボタンやメニューがMSオフィスと同じではないか。簡単な書類を作ってみたが操作性もほとんど同じ。エクセルやパワーポイントもどきのソフトもMSオフィスと同じだった。しかも、オープンオフィスのようなもたつきがなく動きもスムーズだ。 さっそく妻にワードの使い方を教えてみたが戸惑うことはなかった。小学生の娘も学校でワードを使っているらしくすぐに使えるようにな

墓石と太陽

休みの日に雨戸を開けていたら強い光が目に飛びこんできた。一筋の光が私をめがけて向いの山から走っていた。始めは、照光器で照らされているのかと思った。良く見ると山の斜面の墓石に朝日が反射しているだけだった。 この時間と場所に墓石から反射した太陽光が目に入る確率は非常に低い。見ようと思って見れるものではない。宗教者の話の中には強い光で啓示を受けたというものが良く出てくるが、偶然に墓石に反射した朝日と同じようなものを見たのかもしれない。それを悟りに結びつけるところが宗教なのかもしれない。

映画「ウォーリ」

子どもたちにせがまれて何十年ぶりかで映画館に行った。そこは昔の暗くて汚いというイメージからは全くかけはなれたものだった。第一印象は大学の講堂か会社のプレゼンルームといった感じでイスや照明が格段に良くなっていた。話題の映画だったので混んでいると思って立ち見も覚悟していたが最後まで空席が埋まることはなかった。 映画の設定は700年後の未来社会。環境汚染が進んで、地球にはゴキブリ以外の生物が住めなくなっている。人間は宇宙船の中で地球がきれいになるのを待っている。何でもロボットまかせの生活を送った結果、自分の力で歩くこともできなくなってカプセルのようなものに乗って生活している。 その汚れた地球の掃除をしているロボットがウォーリだ。宇宙船から送りこまれた美しい探査ロボットのイヴにウォーリは恋をする。イヴにプレゼントした小さな植物をめぐってロボットと人間のあいだで争奪戦が繰り広げられる。人間が勝利し地球に緑の大地が蘇るというハッピーエンドで終わる。 昔のSF映画やマンガに描かれていた未来はバラ色に輝いていた。自家用飛行機が飛び交い、石油や原子力がエネルギー問題を解決し、コンピュータがテクノロジの象徴だった。欲しいものは何でも手に入り、貧困も戦争もない夢のような世界が未来社会だった。 ウォーリには、そんな輝いた未来の姿はない。未来の都会の高層ビルは廃墟になって町はゴミの山になっている。人間はロボットに自由を奪われて家畜のような生活を送っている。そんな未来が来ないように大きく舵を切って、自分たちの生き方を変えていこうと言うのが作者のメッセージだろうが、子どもたちはどこまで理解してくれただろうか。

PTA

学校のPTAの会長になる人がいないという。そのために推薦委員という人たちが役員を選出するということをやっているらしい。みんなに断られて苦労しているらしい。私が小学生のころは、PTAの会長は名誉職で、なりたくても、なれなかった。 何でやり手がいないんだろうと思って、会則を読んでみると、どうも会の目的がはっきりしない。舵が壊れて行き先が定まらない船の船長を決めているようなものだ。船を修理してから船長を決めるべきではないかと思う。

2009年の厄払い

どんな悪いことが起こっても、新年になれば状況が変わって全てが良くなると思わせるのがお正月のマジックだ。去年は百年に一度の不況と言われていたが、年を越えるだけで経済が好転するとは思えない。でも、それを信じて初詣や厄払いに繰り出していく。どんな時代になっても人間なんて弱いものだ。 お正月気分がようやく抜けた夜の静寂を破るように実家から電話がかかってきた。時間がじかんだったので何があったのかと心配した。聞くと今年の私の人生はお先が真っ暗だと言うのだ。新聞の神社の広告に載っていたのだと言う。神社の営業戦略ということはわかっていたが親孝行と鎌倉見物を兼ねて八幡様に厄払いに行くことにした。 1月11日だったので成人式の着物すがたが多かった。うだつの上がらない人が多いと想像していたが意外に裕福そうな家族連れが多かった。厄払いには賽銭よりお金がかかるので、本当にお金がなくなってしまった人は来ないのかと思った。リピートのお客も多いと考えると、ここのお払いは効くのかもしれないと期待がもてた。申込書には住所、氏名、年齢、生年月日などを書き、お願いしたい項目に丸をつけるようになっている。厄払いのついでに家内安全や交通安全も頼んでおこうかと女房に相談したら、「お願いの数だけお金がかかるのよ」と一喝された。 金額は、5000円、7500円、1万円・・・と自分で選ぶようになっている。買う人が値段を決める商品なんて聞いたことがない。値段によって効きかたが違うわけでもないだろうと思って迷わずに5000円に丸をつける。受付を済ませるまでに30分くらい並ばせられて、そのあとに本殿に上って待合室で名前を呼ばれるのをまた待つことになる。近くに賽銭箱があって、投げ込まれたお金の音がやかましい。こちらは、そんな、はした金じゃないんだ、と変な優越感にひたる。不況の影響もなく正月の神社には金が飛び交っていた。 呼ばれた頃には新書本が1冊読めてしまった。トータルして3時間以上待たされたことになる。本殿には百人を越える欲深い人たちが座っていた。宮司の言われた通りに頭を下げたり上げたりする。会社のおえらいさんたちも、ここでは若い宮司にあごで使われている。代表の人が前へ出てたまぐしを奉納した。どういう基準で代表が選ばれたのか興味があった。 祝詞の最後に全員の名前が呼ばれた。自分の名前が呼ばれると安心してそっと胸をなでおろす

法話を聞きながら考えたこと

法事があった。このような集まりでは年配者が多い。元気な80代がごろごろいる。政治家の世界の年齢構成に少し似ている。50を過ぎた私でも若い部類に入る。ここでは、チャン付けで呼ばれて子ども扱い。長老たちは、いくつになっても若いつもりでいる。 そういう自分も、年を取った自覚はない。時が勝手に過ぎていっただけで自分は何も変わっていないと思っている。 でも、それで良いのではないかと思った。「青春とは人生のある期間ではなく心の持ちかたを言う」で始まるウルマンの青春の詩がある。無理に年のことを考えて老け込むことはないと思う。年を取ったと嘆いても何のプラスにもならない。それより、気持ちだけでも青春を謳歌できればそれで良いようにも思える。 和尚さんの「みんな人は生かされて生きている」という法話を聞きながら考えたことである。

上大岡の車中で聞いた話

暮れも押し詰まった十二月二十九日のことだった。母の病院の帰りに、上大岡から京急に乗った。上大岡からどっと乗り込んだ。人の波に流されるように空いている席に座った。隣には大きな紙袋を持った女性が座っていた。私の方を気づかって紙袋を自分のひざの上に置いたりして席を広げてくれた。 「十分、座れますから良いんですよ。年末になると買い物が増えますからお互い様ですよ」 すると意外な返答が帰ってきた。 「そうじゃないんです。母が老人ホームに入っているんで荷物を届けに行くんです。母は良いんですけど、父が家にいて夜中に大声を出すんです。ぼけてくれればいいんですけど、体は元気で、昼間は頭もしっかりしてるから預かってくれる所がないんです」 初対面の人からずいぶんプライベートな話を聞いてしまった。 「今は、お金さえ出せば何でもやってもらえるけど、人の温かさってものがなくなったような気がしますね。本当は、老人ホームなんてなくても、みんなで面倒を見れたら良いんでしょうが、今は出来ないわよね」 私の母の老人ホームを探しているところなので複雑な心境になった。私の祖父も祖母も九十まで長生きしているが最後まで老人ホームには入らなかった。その時代は家で見るのが当たり前だった。今では、それが当たり前でなくなってしまった。一人でがんばって出来ることではない。「今は出来ないわよね」という言葉にはそんな意味が含まれていると思った。