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年賀状を書いて思ったこと

もう、何年、この時期に年賀状を書いているのだろうか。書く枚数が増えるにしたがって、手書き、版画、コピー、プリントごっこ、パソコンと変わってきた。効率を考えると、電子メールで送ってしまうのがいいのだろう。しかし、年賀状が電子メールになるとは、とうてい思えない。電子メールには重さがない。質感もぬくもりもない。デジタル技術を駆使して、どんなに年賀状に似せても偽ものは偽ものだ。偽ものをもらってもありがたみがない。 高度情報化社会というのは、高度効率化社会と言い換えてもいいだろう。あるいは、高度偽もの化社会と言ってもいいかもしれない。偽ものが跋扈するような社会が良い社会とは思えない。人間は、本当は何を求めているのかを問われる時代になったのだと思う。何でも効率よく短時間で省労力でできることが善であると思われていた時代は終わったのかもしれない。 一枚一枚、年賀状を書いていて、年の瀬に思ったことである。

AppleのキーボードをWindowsで使う

ブックオフに行ったついでに、ハードオフをのぞいてみたら、マックのキーボードが500円で売りに出ていた。USBインターフェースだったので家のDELLのノートにつないでみた。OSはXP。 つないだとたんにAppleキーボードなんちゃらというメッセージが出てきてデバイスとしては認識した。キーをちゃんと受け付けるではないか。マイクロソフトとアップルもだいぶ仲良くなったなあと思ったが英語と日本語の切り替えができない、Capslockが使えないなど不具合が目立ってきた。 そこで、ネットで調べてみたら、思い通りのソフトがあった。その名もAppleKbWinというフリーソフトだ。AppleのキーボードをWindowsで使うものらしい。 このソフトが、なかなかの優れものでキーのマッピングのカスタマイズまでできる。世の中には良い仕事をしてくれる人がいるものだと思った。 ということで、マックフリークにとって理想的な環境が出来あっがった。やっぱり、慣れたキーボードは良いものだ。AppleKbWin、ありがとう。

老人パワー

今では優先席と呼んでいるが、ひと昔前はシルバーシートと呼んでいた。後期高齢者という呼び方は、老人を切り捨てるような響きがあり最悪のネーミングだ。この国は、いつから老人を粗末にするようになったのだろうか。 先日、菩提時で餅つき大会があった。30キロもの餅をついて檀家の人たちを招いてふるまうと言う趣向だ。若い人たちでやろうとしたが、みんな経験がないので、どうやったら良いかわからない。80歳以上の人たちに入ってもらってようやく餅をつくことができた。のし餅の作り方は最長老の96歳のおばあさんが教えてくれた。 力があっても理屈をこねても若い人は何もできなかった。老人は力はないが、コツを知っていた、知恵があった。平気な顔をして15臼をつきあげてしまった。若いものの出る幕はなかった。生き生きとした老人から逆にパワーをいただいた。私も、すでにそちらに歩き始めているが、こんな老人になってみたい。

今を生きる

過去と他人のことは、どんなことをやっても、変えることはできない。      しかし、未来と自分のことは、いかようにも、変えることができる。 そのために、現在を精いっぱい、生きよう。      今を生きることだけが、自分にできる、唯一の仕事なのだから・・・

伊勢神宮とパソコン

Windows98が出たときに買ったノートパソコンが家にある。外見は、まだまだ新しいのだが、使っているうちに、だんだん遅くなって使用に耐えられなくならなくなってしまった。一時は捨ててしまおうかと思った。 試しにリカバリCDでWindows98を入れなおして買った時の状態に戻してみた。デスクトップにあった今まで溜まっていたゴミがきれいになって気持ち良い。立ち上げてみると速い。捨てなくて良かったと思った。ワープロ代わりに使うのならワードもエクセルも必要ない。もともと、Windowsにはメモ帳やワードパッド、ペイント、イメージングソフトが内蔵されている。これがサクサクと動く。贅沢を言わなければ、これで十分だ。 世の中には、古くなったからと言って捨てられたり、ほこりを被っているパソコンがどれだけあるのだろうか。それだけで捨ててしまうのはもったいない。そんなパソコンはリカバリCDで再生させれば良いんだ。XPだとかVISTAだとか、新しさにばかり目を向けさせられるのは、地球温暖化が叫ばれている時代にそぐわないと思う。 実は、この文章も、10年前のノートパソコンのメモ帳を使って書いている。会社で使っているWindowsXP搭載の最新のパソコンと使い勝手は遜色ない。日本には伊勢神宮の本殿が20年ごとに全く同じ形で建て直されるというように、ものを大事に使って行くという伝統がある。この精神に則って使えるものは大事に使っていきたいものである。

鉛を食う虫

寺田寅彦の随筆の中に、鉛を食う虫の話が出ていた。鉛で出来た水道の配管に穴があくので調べたら虫が食っていたという。その虫の糞は鉛色に輝いていて、食べた鉛のほんの少しを取りいれてほとんどの部分を排泄しているらしい。ムダな行為であるが大量の鉛を食わなければ生きられないらしい。 昼休みに日本橋の丸善に良く行ったら、レジに行列ができていた。ハードカバーの高価そうな本を買っている人も少なくない。活字離れと言われているが、世の中には本好きが多いようだ。私もその中の一人で欲しい本だと懐に相談しないで、すぐに買ってしまう。 買った本は、まえがきくらいを読んほったらかしてある。買ったまま何年も寝かせているものもあるし、読み始めても最後まで読みきらないものもある。思った通りの感動にありつける本に出会えることはまれである。 家人からは、部屋じゅうに積まれた本が邪魔だと言われる。読み終えた本はさっさと処分したらどうかと言われる。でも、それができない。この本の山があるからこそ、好きな本に出会うことができるのではないかと思う。鉛を食うのように一見ムダと思えるものが重要な役目を果たしていることがあると思う。

侍従川イカダ下り(2)

侍従川イカダ下りの本番の日。朝は雲があったが次第に良い天気になった。諏訪の橋の下からイカダを下ろして乗船したが川の水量が少なく3人乗ると川底についてしまった。仕方がないので、川が深くなるまでイカダを押すことになった。想定外のハプニングで、胸にぶら下げていた携帯電話が水に入ってダメになってしまった。 水かさが増えて、ようやく、乗れるようになり漕ぎ始めると実に気持ち良い。太陽の光は容赦ないが川面を流れる空気は涼しい。何艘かのイカダを追い越した。夕照橋を越える辺りに来ると疲れもピークになった。潮に押し戻される、わかめがオールに絡み付く。そんなとき、釣り竿の先につけたビニール袋でアイスを差し入れしてくれた。元気百倍、そのままゴールした。2時間くらいの船旅であった。 野島公園では、冷え冷えのソーメンが待っていた。空腹と暑さで疲れきった体にソーメンは、みんなの胃袋を満たした。あれだけの量のソーメンがあっという間になくなった。最後に表彰式があって、頑張った子どもたちに景品が配られた。2時半頃、散会になった。

侍従川イカダ下り(1)

今日は、イカダ作りの日。去年のイカダの補修をして絵を描いた。それぞれ趣向を凝らしたイカダが出来上がった。明日は、これで侍従川を下ることになる。どんなハプニングが起るか楽しみだ。明日も、暑いけど頑張ろう!

Puppy Linuxでパソコン再生

Windows98が入っていた10年前のノートブックにPuppy Linuxなるものをインストールした。インターネットからディスクイメージをダウンロードして、MacminiでインストールCDを作った。慣れない作 業だったので、2晩くらい手を焼いたが、できてしまったら、すこぶる使い勝手がいい。 10年前のパソコンが生き返った。グーグルで検索し たり、ブログを書いたりするだけなら、まったく問題ない。日本語環境も充分だ。アプリケーションのインストールも簡単である。今も、Puppyパソコン上 のFireFoxで書いている。小学生の子供たちがパソコンで調べ物をすることが多くなったので開放することにした。 危なくて遅いWindows98を使い続けている理由は全くない。パソコンを再生させていく作業は楽しかった。久しぶりに熱中した。

ハンドグリップ

スポーツ用具店に行ったら、ハンドグリップの売れ残り品が安く出ていた。ニギニギして握力を鍛えるやつである。握ってみたら感触が懐かしくて買ってしまった。 久しく、握力を鍛えようなどという考えすらしなくなっていた。体力や記憶力の衰えを、ただ嘆いていた。自分で努力することを忘れていた。ハンドグリップは、中学時代の向上心を呼び起こしてくれた安い買い物であった。 暇になると、ニギニギをやっている。少し、握力がついて来た様に感じる。まだ、青いものが残っていたことに安堵した。

朝の時間

久しぶりの書き込みである。いつもの道を走ってみた。丸坊主だった桜の枝にはサクランボがたわわについていた。それをヒヨドリがついばんでいた。冬がすぎ、春が来て、夏の気配すら感じる季節になっていた。長いトンネルから、ポッと抜け出したような、清々しい朝のひと時だった。短い時間だったが、それがとても大切な時間のように感じた。

落ち葉の句

先週行った葉山にあるお寺の石碑にこんな句が掘ってあった。 「掃けばちり 払えば またもちりつもる 人の心と庭の落ち葉も」 掃いても掃いても落ち葉は落ちてくる。木がある限り葉が落ちて来るのは当たり前である。人の心も、煩悩を払えば払った先から湧いてくる。これも当然なことで生きている限り煩悩は途切れることはないというような意味であろう。 葉っぱを無心で掃くということは、心にたまったゴミを掃くことでもあるのだよ、と和尚さんが言っているようにも聞こえた。

線香と時間

親戚で葬儀があった。葬儀の時間は非常に正確だ。6時なら6時という決まった時間に始められて、決まった時間にちゃんと終わる。時間管理をどのようにしているのだろうか。 僧侶は、時間になると登場して祭壇の前のふっくらした座布団に座る。おもむろに、長い線香を取り出してロウソクの炎で火をつける。読経が始まる。参列者のお焼香が始まる。親戚の焼香が終わると読経も終わる。 僧侶は、時計を持っていない。近くに時計もない。誰かが時間を教えている様子もない。どのようにして時間がわかるのか。僧侶は、線香の燃え具合で時間の経過をはかっているのではないか。それでなければ、あんなに長い線香は必要ない。 諸行無常、時は人の営みとは無関係に流れて行く。線香には時間の大切さを知らせると言う意味があるのではないかと思った。僧侶に会ったら、今度、聞いてみたいと思う。

富士山を見た

久しぶりに、新幹線から富士山を見た。何度も新幹線に乗っているが、富士山がきれいに見えることは非常にまれなことだ。時間帯、座席、天候がうまく合わないと見ることができない。 今日は、窓側の良い席がとれた。時間も昼前の一番明るいときだった。雲が一つもない良い天気だった。遠くの家並みの上に頭一つ出た白い冠が見えて来た。見えたり、隠れたりしながらしだいに大きくなって、静岡を過ぎた辺りで、その荘厳な姿が眼前に現れた。僕にとって富士山は、山と言う概念をはるかに越えた宗教的なシンボルになっている。 ふと、こんなことを考えた。アメリカは、何で富士山に原爆を落とさなかったのだろうか?本当に日本を憎んで滅ぼそうとしたのなら、そうしたのだろう。しかし、富士山にも京都にも鎌倉にも手を付けなかった。日本のアイデンティティは守られた。 そんなことを考えているうちに、富士山はもう姿を消してしまった。富士山に元気をもらって出張先に急いだ。

早朝ジョギング

慣性の法則と言うものを高校の授業で習った。静止している物体はいつまでたっても留まっていたいし、動いている物体は止まりたくない性質を持っているという法則である。何かを始める時にはそれなりのエネルギーが必要だ。 一念発起して、今日から早朝ジョギングを始めることにした。辺りはまだ薄暗く東の空が白み始めていた。こんな時間に走っている人なんかいないと思っていたら、走り去る後ろ姿があった。僕だけじゃないんだと、背中を押されるようにして走り始めた。亀のような走りだが、どうにか走り通せた。背中にうっすらと汗が出ていた。 ほんの10分走っただけなのに、今日は妙に頭がすっきりしている。力がみなぎっているようにも感じる。最近、味わったことがない感覚だ。駅の階段を登る足取りも軽い。いつもと何かが違う、僕の中の何かが変わり始めているという感じがした。

フェルミ推定で頭を鍛える

久しぶりに面白い本に出会った。「地頭力を鍛える-問題解決に活かすフェルミ推定 細谷功・著」という本である。 親父や祖父の時代に比べたら、我々の生活は便利になった。コックをひねるとお湯がでて、冷凍食品をレンジで温めればいつでもそれなりのものが食べられる。ハンドルを握ればどこにでも行ける。でも、このような生活に慣らされていると、体力や生活力が弱くなってくるのではないかと言う危惧をいつも感じていた。ガスや水道、石油が無くなったらどうなるのか。そんなことを考えるとぞっとする。 これと同じことが、インターネットの世界でも起っているという話が最初に出ていた。検索エンジンを使えば、子どもの宿題でもどんなことでも分かる。検索窓にキーワードを入れてクリックすれば、瞬時に分かってしまう。分かったつもりになってしまう。実は、ここにも便利な生活と同じジレンマが起っているのだという。それは、人がモノを考える力を奪っているのではないかと言う危惧である。 この本は、このような時代に、モノを考える力を鍛えようと言う本である。そこにフェルミ推定というものを持ち出したのが面白い。フェルミ推定とは、日本中に電柱は何本あるか、というような解くのが難しい問いを自分の考えだけで解くものである。電柱の本数が正確である必要はない。どのように考えたかと言うプロセスが重要である。やってみると、これが意外に難しい。グーグルに聞けばすぐに分かってしまうのに自分で考えると簡単ではない。 フェルミ推定の問題とは、こんなものである。 ・日本全国にゴルフボールはいくつあるのか? ・国会図書館の蔵書数は何冊か? ・太平洋の水は何リットルか? 文明と言うものは、体力だけでなく、人から考える力をも奪いつつあるようである。iPodを聞きながらのジョギングも良いがフェルミ推定を使って頭を鍛えることも一考の余地がある。

海の公園で走ったが・・・

これでも、独身の頃は、良く走っていた。三浦国際マラソンなどの大会に出たこともあった。江ノ島から自宅まで20キロ以上も走ったこともあった。 小学校の高学年になる娘が海の公園のマラソン大会に出ると言うので、下見をかねてコースを走ることになった。海の公園には海岸線に植えられた松並木の間にマラソンコースがある。基点から何キロという表示が出ているのでランナーにはありがたい。 久しぶりに、新しいランニングシューズを下ろして、娘と走り始めた。最初の数百メートルは、娘に走り方や、呼吸の仕方などを教えて余裕だったが、500メートルを越えた辺りから足が上がらなくなって来た。鉄アレイでも付けているように重い。次第に遅れて、1キロを過ぎた頃には、娘の姿は視界から消えていた。ふらふらになって1.5キロをようやく走り終えた。何十年かの不摂生による体の衰えを思い知った。 娘は、もう一回、同じコースを走ると言うので、僕の醜態を見てあきれていた女房が、今度は一緒に走ることになった。結果は、僕以上に悲惨なものであった。途中で胸が痛くなって、よたよたになって歩いて帰って来た。我が家で、小学生の娘に勝てる者はいないということが分かった。 芝生に座ってマラソンコースを見ていると、かなりの年齢の方が悠々と走っている姿があった。マラソンコースをiPodを聞きながら、何周も平気な顔をして走っている女性もいた。今年は、僕も走り始めてみようかと思った。

記憶の不思議

初詣の雑踏の中で、見覚えのある人を見かけた。でも、どうしても名前が思い出せない。そのことが気になって仕方がなかった。気持ちの悪いものである。昔の社員名簿を引っ張りだしてようやく分かった。 人の記憶と言うのは不思議なものだ。顔のイメージや音楽、匂いなどのアナログ情報は忘れることがすくない。しかし、文字や数字などのデジタル情報は忘れやすい。理由を考えると、デジタル情報は、二次情報であり実体とは距離がある情報である。 テレビやゲームやインターネットなどは全てデジタルの二次情報である。二次情報だけで育った世代の記憶は残り難いのではないかと少し心配になった。

大晦日の出来事

昨年の大晦日、正月の準備で葉っぱを掃いていて上を見ると、突風でやられたのだろうか、かなり太い古木が折れて道路に落ちそうになったのに気づいた。危ないので正月を迎える前にどうにかしたかった。一人では手に負えないと思って近くの交番に相談に行った。 相談してみて、がっかりした。木を撤去するので交通止めにして欲しいと話すと、正式に申請を出さなければダメだと言う。今から申請しても受理されるのは正月明けになるという。それでは、意味がない。 交番の判断で対処すると、クレームが来た時に困るのだと言う。自己責任でやってくれという主旨のことを言われた。そんなことを言っても古木が落ちたらどうなるんだ、という押し問答の末、若い警官を立ち会わせるということになった。結局、一人で古木の撤去をした。警官は見てるだけ何の役にも立たなかった。これが住民を守る警察の考え方かと思った。 危険なことが起ろうとしていると言われたら、まず、現場に行くべきではないか。そこで自分の目で安全を確かめてから判断すべきではないか。何も行動せずにマニュアル通りに仕事をしててどうするんだと思った。今年は、この教訓を反面教師にしたいと思う。