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地球をみんなで守りたい

 探査機「はやぶさ2」が小惑星”りゅうぐう”から採取した砂が入ったとみられるカプセルが回収されました。コロナ禍の中、久しぶりに明るいニュースでした。宇宙の平均温度は、なんと氷点下270℃だそうです。「はやぶさ2」は、この極寒の宇宙空間を”を6年間も独りで旅をしてカプセルを持ち帰ってきたのです。(廣瀬隆夫) 師走に入って急に寒くなり、襟を立てて帰宅する途中に、ふと空を見上げると満天の星が輝いていました。その時「はやぶさ2」を思い出しました。そうか、地球が寒いのは当たり前なのか。私たちが住む地球は特別な存在で広大な宇宙に比べたら、ずっと暖かい場所なのか。そう思えたのです。 写真で見る”りゅうぐう”は、木も草もない岩石だけの世界でした。比べると地球はキラキラと輝く青い宝石のように見えました。緑の大地、青い海、動物たちが躍動する惑星。この地球が悲鳴を上げています。「宇宙の奇跡としか思えない地球をみんなで守っていかなければいけない」。「はやぶさ2」の報道にそんなことを思いました。   (C)JAXA   (C)JAXA  

<知恵を集め安全な通信技術>

 <知恵を集め安全な通信技術> コロナ禍でわが家の生活は一変しました。私はテレワークになり子どもたちもオンライン授業です。報告書をメールで送り、無料電話アプリ「LINE(ライン)」やビデオ会議システム「Zoom(ズーム)」などを使っています。インターネットは便利ですが、良いことばかりではありません。詐欺まがいのメールが来たり、偽のWebサイトに出くわしたりと、嫌な思いをすることもあります。 インターネットが普及し始めたのは、「Windous(ウインドウズ)95」が発表された1995年ごろ。まだ30年も経っていません。自動車の歴史でも、蒸気自動車が発明された18世紀当時は故障や事故が多く批判が絶えなかったそうです。誰でも安全に運転できるT型フォードの登場は、20世紀になってからでした。ネットは、まだ発展途上の技術です。これから知恵を出し合い、この便利なツールに改良を重ねて安全で使いやすいものにしていく必要があると思います。今回のコロナ禍が、時代の転換期になって欲しいと願っています。(2020年11月30日)  

エッグハントで国際貢献    平成17年7月6日

家内の中学時代の友だちに、アメリカ人と結婚してフロリダに住んでいる人がいる。その家族が一年に一 度だけ、子どもの夏休みを利用して帰国する。その時、みんなが集まって子どもたちを遊ばせる会が行われている。私は、今回、始めて参加したが、なかなか面 白かった。会場は、八景島シーパラダイスに近い海の公園という所だ。自転車でくる人、シーサードラインという電車で来るもの、自動車でくるもの、と様々な 交通手段を使って集まってくる。 子どもたちは、もうすぐ3歳になるうちの息子が一番チビで、一番大きい子が中学生だ。10人も子ども が集まるとかなりやかましい。そこで何をやるかというと、エッグハントという遊びだ。ヨーロッパが発祥の遊びで、イースターエッグとも呼ばれていているら しい。イースターのお祭りに、子どもの成長を願う目的で昔から行われてきたものだ。欧米では、かなりポピュラーな遊びで、町のスーパーでもエッグハントに 使うプラスチックの卵が売られているということだ。 色とりどりのプラスチックの卵型の容器の中に、子どもが喜びそうな、チョコやガムをいれる。それを親 たちが、見つからないように隠す、それを子どもたちが探す、という単純な遊びだ。スーパーのビニール袋を手にした子どもたちは、獲物を狙うハンターのよう に鋭い目つきで卵を見つけては袋に入れる。親たちが苦心して隠した卵もあっという間に見つかってしまう。準備には時間がかかるが、5分くらいで遊びは終 わってしまった。子どもたちは、戦利品の卵を開けてすぐに食べ始める。卵の中に当たり券が入っていると別のプレゼントがもらえると言う楽しみもあった。 これが終わると、本物のゆで卵にペイントして人形をつくる。このためにキットが用意されている。卵を 染める食紅などを使った染料、染めた卵を引き上げる針金でできた道具、卵にかぶせる帽子、目や鼻の形をしたシールなどがそろっている。子どもたちは、今度 は芸術家になって卵人形を完成させていく。子どもたちの自由な発想で作られた人形はユーモラスでこのままとっておきたいと思うくらいである。しかし、その 卵人形は、殻を割られて味塩をつけて食べられる運命にあった。 エッグハントが終わってからは、お母さんたちのおしゃべりタイムとなる。これが、この会の本来の目的 ではないかと思われるほど、みんな楽しそうだっ

<経済発展より大切なこと>

30年以上も通っている老舗の和菓子屋さんがあります。いつものように豆大福を包んでもらってお金を払おうとしましたら、90歳に近いおばあちゃんに、「袋が有料になりましたから、今度来るときには、袋を持ってきてくださいね」と言われました。 高校の文化祭のとき、紙をたくさん使うので、広告などの裏紙を使っていると、経済を学んでいた同級生に、「そんなことでは経済が発展しないよ。どんどん捨てて、新しい紙を買って経済を回さなければ世の中は良くならないよ」と言われました。その言葉にずっと違和感を持っていました。 「貧乏な人は、少ししかモノを持っていない人でなく、いくらでも欲しがって、どれだけあっても満足しない人のことだ」とウルグアイのムヒカ元大統領の言葉です。新しい紙をどんどん買うということは、まさに欲しいモノを無限に手に入れようとすることではないでしょうか。 プラスチック製レジ袋の有料化は、暮らしぶりを見直すきっかけです。おばあちゃんの言葉を聞いて、長年の違和感が解消されたような気がしました。  

▶上野の金色のアヒルの謎

昼休み、上野を歩いていましたら、京成上野駅の近くにある金色のアヒルの像が目に止まりました。そこには、川柳の原点「誹風柳多留発祥の地」と書いてありました。平成27年8月に柳多留250年実行委員会と台東区教育委員会の人たちが建てたものらしいのです。樽には「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」という川柳が彫られていました。 Googleで調べましたら 誹風柳多留(はいふうやなぎたる) は、1765(明和2)年から1840(天保11)年まで毎年刊行されていた川柳の句集だそうです。 このアヒルの句は「木綿」と号した誹風柳多留の編者の 呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし) の作ということでした。呉陵軒可有という奇妙な名前は「御了見可有」という慣用句をもじった名前で「堪忍して下さい」という意味があるそうです。句会で、いつも賞品をさらってしまう人で「な~んだ、またあんたかね」という軽い羨望と嫉妬の声に、「ご了見、ご了見」と答えていたところから、この名前がついたと言われます。 誹風柳多留と樽をかけて、その上に金のアヒルを置いたものらしいです。樽の謎は解けましたが、問題は、誹風柳多留の中の数ある川柳の中からアヒルの句が何で選ばれたのかということです。 川柳 は、俳句と同じ五七五ですが、俳句には季語や切れ字の約束がありますが、川柳にはそういう規律がなく、かなり自由です。俳句が自然や風景を詠うことが多いのに比べて、 川柳は題材の制約がなく 、人の暮らしや出来事、人情までも扱われます。 そのため、政治批判、博打、好色など風紀を乱すとされた句も詠まれて、お上から忠告された時代もあったそうです。その後、風流、ワビサビを追求する俳句とは違った路線を歩むことになります。会社員の悲哀を詠ったサラリーマン川柳などはその好例でしょう。 「いい家内 10年経ったら おっ家内」( サラリーマン川柳 傑作選より ) そこで、「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」の句です。鷹のように大空高く飛ぶことができる鳥を俳句だとすると、川柳はアヒル。アヒルだって羽を持っているのだから、言い訳ほどだけど、少しは飛ぶことはできるのだよ、という斜に構えた皮肉を込めた意味だと思います。 記念碑の横の石碑には「孝行を したい時分に 親はなし」の句が彫ってありました。ずばりと真実を突いて、うまいこと言うなと思いました。アヒルにはアヒ

秋色桜のお話

 時は天和2年(1682年)、上野の桜が咲きほこる春の日のことでございます。近所に住んでいた芭蕉一門の宝井其角(たからいきかく)に幼い頃から俳諧を学んだという才媛、日本橋小網町の和菓子屋の娘、お秋は上野公園へお花見に参りました。そこで早速、花見酒に酔う人を見て一句浮かびました。 井戸端の 桜あぶなし 酒の酔 花見客を想って上野の清水堂の脇にあった桜の枝に、この歌をくくりつけたのです。上野寛永寺に参った公寛法親王(こうかんほうしんのう)がお通りになり、お秋の歌に目をお止めになりました。親王はその句がたいそうお気に召し、歌を詠んだ本人に会いたいと、彼女に謁見の場を設けました。ところが会ってみると僅か13歳の少女だったことに感激し、お秋は一躍、時の人となりました。   月日が経ち、お秋は菊后亭秋色(きくごていしゅうしき)という俳号を名乗り、元禄の四俳女のひとりと言われるほど有名になりました。ある時、俳諧をよくした松山藩2代藩主、安藤信友の目に止まり、屋敷に招かれることとなりました。滅多にない機会だからと、父親もお付きの人に成りすまし、用意された駕籠にお秋を乗せ一路お屋敷へ参った帰路のことでございます。   あいにくの冷たい雨が降り始めました。お秋は「お腹が痛いので薬を買って来てください」と、かご屋にお願いしたのです。年老いた父親を雨の中で歩かせて、自分だけが駕籠に乗っているのが心苦しくなったお秋は、かご屋がいない隙に父親を駕籠に乗せる算段をしたのでした。お秋は父親が身に着けていた粗末な笠と合羽を身にまとい、そのまま家に帰りました。   家に駕籠が着くと、降りたのはお秋ではなく、お付の人のはずの父親だったことに、かご屋は肝をつぶしました。お秋は、このことが知れると、くれぐれも内密にしておいてください、と懇願しましたが、たちまち、この親孝行な娘の話が江戸中に広まり、国周や国芳がその情景を錦絵に描くまでになったのです。 この井戸端の句は、今でも春先の桜のころになると講談の演目として扱われており、お秋は「秋色桜」という話に出てまいります。秋色桜は上野公園内の清水観音堂脇で、現在9代目の桜の木が今でも現役で花を咲かせております。和菓子屋「秋色庵大坂家」として、三田に店を移して、今でも美味しいお菓子を作り続けております。 (参考) https://www.o-sakaya.com/s

日本・ブラジル友好の木

六浦駅の近くの六浦白梅公園に黄色い珍しいイペの木の花が咲いています。この木にまつわる日本・ブラジル友好のお話をご紹介します。 この六浦白梅公園には、白梅保育園があり、二宮金次郎像がありました。平成8年に廃園になるとき、園長が小田原城の近くにある報徳博物館を運営する(財)報徳福運社に寄贈しました。 この像は、平成21年に日本人ブラジル移民100周年を記念して、(財)報徳福運社からブラジルに渡りました。そのお返しに、ブラジルの神奈川県人会から、日本・ブラジル友好の木として贈られたのが、このイペの木です。 普段は何の変哲もない木ですが、毎年春になると黄色い花を咲かせて目を楽しませてくれます。この花を見ると100年以上前に、どんな思いで遠いブラジルに渡ったのか、その子孫たちが、日本を忘れずに、心の支えとして今でも二宮金次郎像を大事に守っていることを思うと胸が熱くなります。 4月いっぱいは、黄色いきれいな花を見ることができます。みなさんも、この花を見たら日本とブラジルとの深い友好について考えてみてください。 参考:六浦白梅公園愛護会説明板

地球から人類への警告か

説明: 新型コロナウイルスの感染拡大は、いまだに収束の兆しが見えてきません。私も感染するのではないかとビクビクしながら満員電車で通勤しています。東京五輪・パラリンピックも延期が決まり、経済活動にも影響が出てきました。 かつて人類はいくつもの感染症に脅かされてきました。大航海時代、14〜15世紀の欧州で人口の3分の1を死に至らしめたペスト。産業革命、19世紀に世界を席巻したコレラ。そしてグローバル化された現在、今回の新型コロナウイルス。これら病原体は時代の節目に顔を出し、人類に何かを訴えかけているようです。 「ガイア理論」をご存知でしょうか。地球を一つの生命体ととらえる考え方です。私は、今回のウイルス騒ぎは現代文明への地球からの警告ではないかと考えています。世界のどこにも簡単に行ける時代、スマホで何万人とでも会話できる時代、何でも手に入れることができる時代。でも、この便利さを支えているのは、地球の地中の奥深く眠っていた石油、石炭、ウランなどの鉱物資源から作り出されたエネルギーです。このエネルギーを無闇に使いすぎて温暖化が進み、地球は悲鳴をあげています。人類だけの地球で良いのか。 「人類よ、もっと地球のことを考えろ」と言っているような気がします。新型コロナウイルスの影響でイベントや美術館、図書館などが休みになり、時間だけはたっぷりあります。改めてこの時期に、自分たちの生き方をじっくりと考えて直してみたらいかがでしょうか。

送別会のお礼

この度は、盛大な送別会を開いていただきまして、本当にありがとうございました。 在職中は、ひとかたならぬお世話になり、ありがとうございました。 振り返りますと、電電公社の民営化の翌年の1986(昭和61)年にJIPに入社して34年、前職の明星電気の9年を加算すると43年のサラリーマン人生でした。明星電気に入社して4ビットCPUによるマイコンタイマー、Z80を使った受発注端末機、出退勤装置、モデム内蔵電話などを開発しました。回路図は手書きでプリント基板も手張りで作っていました。プログラム言語はアセンブラで頭の中は8進数で埋め尽くされていました。 ⇒私の歩んだ道 hirose555.blogspot.com/2020/02/blog-post.html   その後、明星電気で私が開発した製品のサプライヤーをしていたJIPに移りました。ミイラ取りがミイラになったということですね。JIPでは、出退勤システム、MacやSONYのUNIXワークステーション”NEWS”などの機器販売のビジネスを展開する情報機器事業部に配属になりました。今はありませんが、茅場町の富士ビルやSFビルで肩を寄せ合って仕事をしていたことを昨日のように思い出します。その後、セキュリティ事業プロジェクト、ネットソリューション事業部、公共システム事業部、研究開発部、子会社の(株)JBISコンサルティングを経て、監査部で情報セキュリティを担当しました。 JIP入社当時は、まだ手書き、青焼き、パンチカード、モデム、音響カプラが現役での時代でした。PC9801、FACOM 9450、Multu16、if800、SOAD_PIPSなどが業務端末として使われていました。その後、PCが一般オフィスでも普通に使えるようになり社内文書は、和文タイプライターから一太郎、松で作れるようになりました。しばらくするとNetWare、WindowsNTなどのネットOSが普及し、社内にイエローケーブルが敷設され情報共有や電子メールができるようになりました。 今は、モバイル、スマホ、SNS、クラウド、AI、あらゆるモノがインターネットにつながるIoT、デジタル技術が生活を激変させるデジタルトランスフォーメーション(DX)の時代になり、情報技術(IT)が社会のインフラになりました。世の中がこんなに大きく変わると

送別会ありがとうございました(監査部、総務部、JTSのみなさんによる送別会)

・日時: 2020年 2月25日 18時〜20時30分 ・場所:神保町 四川料理 川芙蓉 監査部のメンバーが送別会を開いてくれました。担当役員の笠原さん、監査部長の川島さん、関口さん、高梨さん、村上さん、林川さん、熊本さん、総務部長でこのような会には必ず出席していただいている小嶋さん、前の監査部長だったJTSの高橋さんがお祝いをしてくれました。川芙蓉は、以前は留園という名前でしたが、オーナーが変わりました。個室がたくさんあって、しかも、食べ放題飲み放題で2,980円という有り難い価格設定のお店です。でも、残すと2000円の罰金がありますので、料理を頼みすぎないように注意しました。ここは、菊川さんの送別会でも使った場所です。 みなさん、一人ひとりから心温まるメッセージをいただきました。私は、このように見られていたのかということが分かり真剣に聞き入りました。送別会なので、だいぶ盛った話だと思いますが、尻こそばゆい思いをしました。お話の中で、オープンシステムインテグレーションが出てきたのには驚きました。メインフレーム全盛でパソコンが出始めた時代に、UNIXを中心としたオープンシステムが主流になると口角泡を飛ばして言っていたことを懐かしく思い出しました。 最後は、川島さんの三本締めがあり、机の上の料理もきれいに食べ尽くしました。みなさんから、JTBのギフトカードをいただきました。女房にも半分渡そうかと思っています。みなさん、本当に、ありがとうございました。

送別会ありがとうございました(旧・情報機器事業部のみなさんによる送別会)

・日時: 2020年 2月17日 18時30分〜21時30分 ・場所:日本橋 入金 2月末で会社を定年退職しますので、曽根さんが幹事で昔の情報機器事業部(以下、情機)の仲間でお祝いをしていただきました。石丸さんは、大阪から駆けつけてくれました。一緒に出退勤の特許をとった稲垣さん、訳あって少し遅れて情機に参加した粂山さん、情機で最初の新人営業だった堀さん、そして、なんと言っても、当時、星野軍団とも呼ばれていた情機の大御所の星野さんにも参加していただきました。 場所は、現役時代に、昼に良く定食を食べていた日本橋の”入金”でした。夕方の6時半からスタートして終わったのは、9時半くらいでした。ここは、店員がお年寄りが多いので、9時くらいには店を閉めるので、お店の人には少し迷惑だったかもしれません。みなさんから、高級なワインをいただきました。娘たちも飲める歳になりましたので、家族でいただきたいと思います。 昔の仲間は本当にかけがいのないものだと痛感しました。ありがとうございました。 このメンバーが集まると、いつもの話になります。何度も話した内容ですが、何度話しても面白かったです。私がJIPを受けて落ちた話、星野さんが明星電気を最初に訪ねたときに、私の態度が悪かった話、明星電気の守谷工場で徹夜で開発していて、朝を待って自家用車を使ってROM交換をした話、その時、星野さんの奥さんがおにぎりを作ってくれた話、飛島建設の食堂のシステムでエラーが多発して、その原因追求のために5000回磁気カードを読ませるテストを行ったが、原因は、基盤の逆刺しだった話、などで盛り上がりました。 今回は、JIPの情機の初期のメンバーが、どのように明星電気を知ったのかという謎が解けました。 ⇒私の歩んだ道 hirose555.blogspot.com/2020/02/blog-post.html 最近のことは忘れることが多いですが、このような大昔の記憶はなぜか残っていますね。いつか、この辺の話を小説風(仮題:情報機器物語 火の玉軍団誕生秘話)にまとめておきたいと考えています。これからも、ずっとお付き合いさせていただきたいと思います。今後とも、よろしくお願いします。

私の歩んだ道

当時、明星電気では、アイ電子測器(株)のFDPSという CP/M ベースのミニコンで開発していました。CP/Mは、Windowsの前のMS-DOSの先祖のようなOSです。これはICE( In Cercit Emurator )が付いていて、それを基板上の Z80 のソケットに挿して開発するものです。Z80は、インテルが最初に作った8080というワンチップCPUの改良版で使いやすいCPUでした。FDPSはDEC仕様のグリーンディスプレイとキーボードを接続するようになっていて、当時としては画期的な8インチのフロッピーがついていました。それ以前の機種の外部記憶装置は紙テープでした。デバッグやらトレースやらをしてバグを潰してプログラムが完成すると 紫外線消去型EPROM に書き出していました。プログラム環境は、”LD r1,r2”のように記述するアセンプラ言語で、コンパイルしてバイナリに変換してROMに焼いていました。バグが見つかると紫外線消去機で消して、再び焼くことを繰り返してやっていました。ROMの窓のところに紫外線を当てて消去して、書き込んだ後は、窓をシールで塞ぐという原始的なやり方でした。 このFDPSにディスプレイとキーボードを付けてコンパクトにまとめたABC26というミニコンがあり、それを石丸さんが、当時、後楽園にあった佐々木ビルに入っていた明星電気の本社に持ち込んだのを記憶しています。石丸さんたちは、JIPに入る前は、CSCという商社に居られましたので、開発機器などに詳しかったのです。その時、キーボードを階段から落として、キーが一つ破損しました。石丸さんが、セメダインでくっつければいい、というようなことを小声で言っていたのを覚えています。明星電気を紹介したのは、 アイ電子の青田さんということです。これが最初のきっかけなんですね。 その後は、山下システムズ株式会社の産業用マイクロコンピュータ「STD-BUSボード」が導入され、データ収集機などの大型の機械は、これで開発していました。OSはCP/Mでした。 http://www.misnet.co.jp/profile/history.html 特許庁のHP ■ 出願/取得した特許 1)1986/05/28 デ-タ処理システムへの自動アクセス方式 https://www.j-pl