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▶吉田兼好は、金沢八景に住んでいた!

 徒然草を最初に読んだのは、横須賀高校の古文の授業でした。最初に読んだのは、第四十一段の「加茂の競べ馬」だったと思います。

木に登って居眠りしながら落ちそうになって見物しているお坊さんをバカにする人を叱るという話だったと思います。まったくチンプンカンプンでした。

人はいつ死ぬかもしれないのだから、ここで見物している貴方たちも、あのお坊さんと同じなんだよ、と人生の無常を諭す話だったんですね。こんなこと、十五、六の高校生に分かるはずがありません。

吉田兼好は、京都の有名な神社の神官を世襲する名家に生まれ、若い頃は宮仕えをしていたのですが、煩雑な人間関係に嫌気がさして三十歳くらいで出家したと言われています。

 この兼好が、横須賀にも近い金沢八景の近くに住んでいたということは、前から聞いていたのですが眉唾ものだと思っていました。しかし、色々と調べてみると、どうやら本当らしいのです。

状況証拠1】 徒然草 第三十四段
甲香(かひこうは、ほら貝のやうなるが、小さくて、口のほどの細長にさしでたる貝のなり。
 武蔵国金沢(かねさわといふ浦にありしを、所の者は、「へなだりと申しる」とぞ言ひし。


 「武蔵国金沢(かねさわといふ浦」というのは、たぶん、今の六浦のあたりだと思います。そこに法螺貝に似た貝の蓋が転がっていて、地元の人は、「へなだり」と言うんだよ、という話です。

上行寺の説明によりますと、兼好の旧居跡が上行寺の裏山の一画にあったと伝えられています。今は埋め立てられていますが、上行寺から六浦は当時は、目の前でした。ここで兼好が法螺貝に似た貝の蓋を見た可能性は大です。


状況証拠2】 徒然草 第百十九段
鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。
 かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。


 兼好が住んでいた上行寺から鎌倉までは、朝比奈を越えれば歩いて1時間チョットです。兼好が鎌倉に行って、年寄りの話しを聞いていたとしても不思議ではありません。

状況証拠3】 兼好法師歌集の中に「武蔵野国金沢というところに、昔住みし家の、いたうあれたるにとまりて、月あかき夜」という詞書で「ふるさとの 浅茅の庭の露の上に 床は草葉と 宿る月かな」という和歌が残っています。 


状況証拠4】神奈川県立金沢文庫に「兼好法師行状絵巻」という絵が残っています。金沢閑居の草庵から金沢八景を眺める兼好の姿が描かれています。確かに、上行寺の裏山からは、金沢八景が一望できます。

【状況証拠5】 兼好の兄の吉田兼雄が北条二代顕時、三代貞顕の執事として仕えており、北条二代顕時の夫人(千葉泰胤の娘)の発願で建立された嶺松寺が上行寺の近くの殿谷戸にありました。

このような状況証拠から、 吉田兼好は、金沢八景に近い上行寺の裏山に住んでいたということに疑いを持たなくなりました。

兼好は、ここから山伝いに、当時は有数な図書館であった「金沢文庫」まで歩いていき、勉学に勤しんでいたということは十分に考えられます。七百年以上前の話で曖昧なことが多いですが、資料を読んで、このように類推できることは大変に楽しいことです。

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