<<「歴史は繰り返す」20120401>> ノーベル賞をもらった益川さんは、受賞のインタビューで「特別にうれしくありません」と言ったり、スウェーデンで行われたノーベル賞の記念講演の時に、「アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ」と冒頭に英語でぶちかまして会場の聴衆を笑わせたりと破天荒な人だなと思っていた。 丸善で偶然、益川さんの本を見つけたので読んだ。「学問、面白くなくちゃ」という本。その本の最初に、「自由とは必然の洞察である」という言葉が唐突に出てくる。何のことか、さっぱり分からなかった。 自由は英語では、FreedomやLibertyだが本来は束縛されないとか開放とかの崇高な意味があって欧米人はすごく大事にする。自由の女神はアメリカの象徴であり、入植者たちは西部開拓で新天地に自由を求めた。銃規制が進まないのも自由の精神が足かせになっていると思う。電車の端っこに座っている欧米人に理由を聞くと、「体の半分くらいは自由にさせてくれ」と応えたという。 明治維新にFreedomやLibertyが西洋から入ってきた時、ガチガチの封建主義の中にいた当時の日本人には、このような概念がなかったのではないかと思う。漢籍に詳しい誰かが、自由という漢字を当てはめた。英語とは少しニュアンスが違う。勝手気ままという意味あいが強い。 自由とは勝手気ままに振る舞うことなのか。これが益川さんの問題提起である。 ここに2つの箱がある。どちらかの箱に100万円が入っている。もう一方の箱には猛毒の青酸ガスが入っている。このようなシチュエーションで箱を開けるという自由があるかと言う問題。 50%の確率で命を捨てるような人はいない。大抵の人は、安全かどうかを事前に良く調べて箱を開けるだろう。それをやったら結果はどうなるかという必然性を洞察することで、はじめて自由を手にすることができると言う。それが、「自由とは必然の洞察である」という言葉の意味ということである。これは、ドイツ観念哲学の祖のヘーゲルが言ったことらしい。 益川さんは、この言葉が気に入っていて科学を通して、こうすれば、ああなる、という必然性の洞察をして自由を拡張することに研究の意味があると考えているそうだ。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 私たちが、何も考えずに自由にやっていることも、