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人は見た目が9割

人は見かけによらない、外見だけで人を判断してはいけない、と小さい頃から教えられてきた。人は外見より中身が大事なんだ、と自分でも思ってきた。だから、着るものや髪型などに気を使ったことがなかった。しかし、それは、間違っていることに気がついた。

先週、プレゼンテーションスキルセミナーなるものがあった。出席を予定していたものがインフルエンザにかかったので代わりに出ないかと上司に言われた。このようなセミナーには興味がなかったが、高輪の高級ホテルの昼食つきという触れこみにつられて、つい返事をしてしまった。参加してみたら人生観を変えてしまうくらい良いセミナーだった。

参加者は7人で若い女性からメタボのおじさんまでバラエティに富んでいた。初めに全員の前に1分間立たされた。何もしゃべらずに講師も含めて十四個の目にさらされた。1分という時間がずいぶん長く感じられた。それが終わると、講師が、ひとり一人の参加者に意見を聞き始めた。見ただけで私がどんな人かを感じたまま言えというのだ。参加者は全く面識のない人たちだ。外見だけで何が分かるかと思っていたが、かなり当たっていた。初対面の人は私のことを、こんな風に見ているのかと驚いた。

それから、自分で考えたテーマでプレゼンテーションを行い、それをみんなに批判された。これをコーチングと言うらしいが、かなり辛らつなことを言われてむっとしたことが何度もあった。その後に、自分のプレゼンテーションの内容をビデオで見せられた。みんなが言っていたことが当たっていることが分かると顔が赤くなった。こんな風に見られていたのかと思うと本当にショックだった。

鏡で見ていた自分とビデオに映った自分は別人だった。講師の話によると、鏡では、自分を良く見せようと表情を瞬時に変えているのだそうだ。だからビデオに映った姿が本来の姿だと言われてさらにショックを受けた。

外見だけで人をを判断してはいけないが、外見だけでかなりのことが分かるものだ。セミナーに触発されて「人は見た目が9割(竹内一郎・著)」という本を読んだ。ノンバーバルコミュニケーション(言語によらないコミュニケーション)についてかなり真面目に書かれた本だった。そこでは、アメリカの心理学者のアルバート・マレービアン博士の実験結果が出ている。初対面の人が受け取る情報の割合は次の通りだそうだ。

・話す言葉の内容 7%
・声の質、大きさ、テンポ 38%
・顔の表情、態度 55%

初対面の人と話をする時に話の内容は1割に満たないというのだ。あとは見た目が決めているということが言うのだ。今回のセミナーの講師も全く同じことを言っていた。プレゼンテーションの初対面の聴衆者は、講演者が壇上に登場して、聞くに値するかを見た目で判断しているというのだ。今までプレゼンの内容ばかり考えていたことが虚しくなった。

今回のセミナーの体験で「人は見た目が9割」は言い過ぎだが5割は分かるのではないかと思った。だから見た目に気をつけなければいけない。初対面の人は見た目だけで人の本質の半分を見抜いてしまうのである。始めてのデートのとき、会社の面接、結婚式のスピーチ、ビジネスでのプレゼン、などなど、見た目だけで判断されていたことはたくさんある。自分のちょっとした、しぐさや態度、表情が相手に大きな情報を与えているのである。このことをもっと早くから分かっていたら人生が変わっていたかもしれない。いやいや、これからの人生が変わって行くと信じたい。

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