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大いなる躍進への決意を込めた「第一回年忘れ大駅伝大会」の報告


大いなる躍進への決意を込めた「第一回年忘れ大駅伝大会」の報告
                  日本電子計算株式会社 情報機器事業部

平成五(1993)年も残り僅かになった12月17日、情報機器事業部では年忘れ大駅伝大会が行われた。そもそもの発端は5階の食堂サロンで事業部長を囲んでのよもやま話から始まった。最近は売上が落ちている、この不景気を吹き飛ばす情報機器事業部らしい何か変わった趣向の忘年会ができないか、しかもお金をかけずに。結局、グループ対抗の駅伝大会をやろうということが、酒の勢いで決まった。決行する日は会社の忘年会の前日の金曜日と決まった。就業時間が終わってから走り、その後、7時から引き続き忘年会を行うという、とてもシラフでは考えられないハードスケジュールとなった。

コースは木場の景観を残す会社の近くの”潮風の散歩道”に決まった。”潮風の散歩道”とは江東区が災害時の退避用に作ったYMCA横の運河沿いの全長1キロメートルに渡る散歩コースのことである。着替えの場所は総務部のS課長にお願いしてYMCAのシャワー室を借りていただいた。計測はマッキントシュの「パワーブック」を使ってオリジナルのタイム計測システムをO社員が即席で作った。タイムの集計及び順位の算出は表計算ソフト「エクセル」のマクロ機能を使ってY社員が行う事となった。ゼッケンは事業推進本部のI次長にお願いして「JUANA」で作ってもらうことにした。表彰状は情機が販売していたパッケージソフト「名刺工房」用の楷書体を使ってレーザープリンタから打ち出した。

参加グループは情報機器事業部のオープンシステムグループ、文教システムグループ、企業システムグループ、システム企画部という4つのグループと、本部の管理本部グループの合計5グループが参加することに決まった。管理本部グループには足の速い女性が入っていた。各グループ4名構成で最初の3名が1キロ、アンカーが2キロを走り健脚を競う事になった。また、マラソン大会のギャラリーにあらかじめ勝敗の予想をしてもらい景品が当たるというゲームも企画した。

午後6時10分、各グループの精鋭たちが、寒風吹きすさぶ薄暗い”潮風の散歩道”のスタート地点に集まった。立っているだけで震えが来るような寒い日にもかかわらず多くのギャラリーが集まった。情報機器事業部の人たち以外にもF常務やS室長、N部長の姿も見受けられた。H事業部長の挨拶に続いて簡単なコースの説明のあとスタートの号令がかかった。レースが始まる前は気楽にやろうなどと言っていた連中がいざ本番になると真剣そのもの。物凄いデッドヒートが行なわれた。日頃の運動不足がたたってゴール直後に大の字になってひっくり返っている者もいた。

今回のレースの焦点は情報機器事業部とそこに挑戦状を突きつけてきた管理本部の対決にあった。結果は体育会系を揃えたオープンシステムグループがかろうじて総合優勝はしたものの、女性が含まれているのにもかかわらず総合でも2位の成績を納め、区間賞も二つ独占した管理本部がおいしいところを総なめした結果となった。しかし、後で聞いた話によると総務部のN課長代理が本大会のためにカロリー消費を考えてスタートの2時間前にバナナや林檎を選手たちに食べさせていたということが分かった。走者の実力だけでなく管理本部の緻密な準備と思いやりの勝利でもあった。

マラソン大会が終わった後、SASセンター5階の食堂で行なわれた忘年会は、多少スタートは遅れたものの大変な盛り上がりを見せた。賞品はささやかなものであったが選手たちにとっては十分価値のあるものであった。今回の忘年会では、資金はなくともアイデアと工夫と頑張り次第で大いに楽しむことが出来るという教訓を得た。このようにして今年の厄払いと来年の大いなる躍進への決意を込めた第一回年忘れ大駅伝大会の幕は閉じた。しかし、はっきり言って本当に疲れた。第二回があるかどうかは今のところ未定である。(文責 H、廣瀬)

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