スキップしてメイン コンテンツに移動

採用面接官が知りたい3つのポイント

採用面接での対応は、時にあなたの人生を左右する。面接が採用の決定的な要因になることも多い。短時間のやり取りで抜きん出た印象を与えるには、面接官が何を確かめようとしているかを理解して、準備をすることが不可欠だ。彼らが本当に聞きたい3つの質問と、その回答法を示す。

① 一緒に働く仲間になれる人か?

面接では、あなたが価値のある同僚になれることや、楽しく付き合える人であることを面接官に示して欲しい。面接の成否を決める大きな要素の一つは社交性だ。もちろん、専門分野の知識も必要だが、あなたが会社のメンバーの一員になったらどのような感じか、気持ちよく仕事ができるか、相手がイメージできるように説明することが重要だ。

志願者が犯しがちな間違いの一つが、面接を試験のように考えることだ。この試験で満点を取りたい、大失敗はしたくないという考え方が全面に出てしまうと、構えすぎたり聞かれたことだけを必死に応えたりしてしまう。面接官は、同僚にしたい人を探していて、面接は互いに相手を知る機会だと考えれば、対応の仕方は変わってくる。面接は「私たちは一緒に働きたいか?」という問いの答えを共同で探すプロジェクトになる。

この考え方のもう一つの利点は、あなたと面接官の脳が、より深く同期することだ。人はタイミングよく情報を伝えるためには軽快なテンポで話をする。聞き手の脳は相手が話していることをより的確に理解するために、言葉や文法、声の調子を予測する。前向きで興味をそそる会話は、互いに相手の真似をする。あなたが面接官に対し、信頼できる同僚として接すれば、笑顔を浮かべ、身を乗り出して話を聞き、熱意を込めて友好的に話し、アイコンタクトを送るだろう。面接官は、あなたを自分たちの組織の一員のように感じるだろう。

② 入社しても学び続けられる人か?
仕事に必要な基本スキルはすでに持っているだろうが、大学で得た知識は、すぐに陳腐化する。働き始めても学び続けなければならない。あなたが学ぶ意志があると、どのように示せばいいか。

あなたが答えに窮する質問を、面接官は少なくとも一つは用意してくるだろう。曖昧な表現で意図がはっきりわからない質問だ。聞き慣れない専門用語が出てくるかもしれない。質問自体は理解できても、何を言えばいいのか思いつかないかもしれない。そのときは、ごまかさないこと。優秀な面接官は、偽りの反応をすぐにかぎ分ける。むしろ、自分は知らない、理解できないと素直に認める方が好印象を与える。

面接官は、あなたが自ら質問して、さらなる情報を求め、より確かな情報に基づいて返答し、自分の成長に主体的に取り組む姿勢を見せる人かどうかを確認したいのだ。質問されて戸惑ったら、面接官に納得の行くまで説明を求めること。面接官の返事を聞いても論点をうまく整理できなければ、自分にとって初めてのテーマだと正直に伝える。自分が新しい課題にどのように取り組むかを示しながら、学ぶことに積極的であることを伝えるのだ。

③ 組織の中で率先して行動できる人か?
面接官は、指導力を発揮してイニシアチブをとる人を求めている。努力と意欲を伝える最善の方法は、完璧に準備をして面接に臨むことだ。会社の業務内容や歴史、強みと弱みについて、明確に理解しておく必要がある。さらに、面接でよく聞かれる質問に答えられるように練習する。練習の際に自分の知識が足りないところに気がつけば、そこを埋める時間はまだある。どのようなやり取りでつまずきやすいかを確認することもできる。そして、本番では適切な受け答えができるだろう。

応募の資格要件を満たして、面接の準備を十分にしても、採用されないかもしれない。それでも、面接官と良い関係を築くことができたと感じたら、あらためて連絡をとっておこう。ただし、その際は、自分の欠点を改善するために何ができるかという話だけをする。不採用の理由を問いただしたりしてはいけない。

突き詰めれば、面接で注目されるために重要なことは、面接官があなたを雇う前に、あなたについてどのようなことを知りたいのかということを、じっくり考えておくことだ。そこから始めれば、面接官が懸念を抱いた時に、その懸念に対処できるだろう。
アート・マークマン (テキサス大学オースティン校教授)

【参考文献】
Harberd Visiness Review
https://www.dhbr.net/articles/-/6056?page=1

HBR.org原文:3 Questions Hiring Managers Want You to Answer, July 12, 2019.
https://hbr.org/2019/07/3-questions-hiring-managers-want-you-to-answer

コメント

このブログの人気の投稿

▶上野の金色のアヒルの謎

昼休み、上野を歩いていましたら、京成上野駅の近くにある金色のアヒルの像が目に止まりました。そこには、川柳の原点「誹風柳多留発祥の地」と書いてありました。平成27年8月に柳多留250年実行委員会と台東区教育委員会の人たちが建てたものらしいのです。樽には「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」という川柳が彫られていました。 Googleで調べましたら 誹風柳多留(はいふうやなぎたる) は、1765(明和2)年から1840(天保11)年まで毎年刊行されていた川柳の句集だそうです。 このアヒルの句は「木綿」と号した誹風柳多留の編者の 呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし) の作ということでした。呉陵軒可有という奇妙な名前は「御了見可有」という慣用句をもじった名前で「堪忍して下さい」という意味があるそうです。句会で、いつも賞品をさらってしまう人で「な~んだ、またあんたかね」という軽い羨望と嫉妬の声に、「ご了見、ご了見」と答えていたところから、この名前がついたと言われます。 誹風柳多留と樽をかけて、その上に金のアヒルを置いたものらしいです。樽の謎は解けましたが、問題は、誹風柳多留の中の数ある川柳の中からアヒルの句が何で選ばれたのかということです。 川柳 は、俳句と同じ五七五ですが、俳句には季語や切れ字の約束がありますが、川柳にはそういう規律がなく、かなり自由です。俳句が自然や風景を詠うことが多いのに比べて、 川柳は題材の制約がなく 、人の暮らしや出来事、人情までも扱われます。 そのため、政治批判、博打、好色など風紀を乱すとされた句も詠まれて、お上から忠告された時代もあったそうです。その後、風流、ワビサビを追求する俳句とは違った路線を歩むことになります。会社員の悲哀を詠ったサラリーマン川柳などはその好例でしょう。 「いい家内 10年経ったら おっ家内」( サラリーマン川柳 傑作選より ) そこで、「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」の句です。鷹のように大空高く飛ぶことができる鳥を俳句だとすると、川柳はアヒル。アヒルだって羽を持っているのだから、言い訳ほどだけど、少しは飛ぶことはできるのだよ、という斜に構えた皮肉を込めた意味だと思います。 記念碑の横の石碑には「孝行を したい時分に 親はなし」の句が彫ってありました。ずばりと真実を突いて、うまいこと言うなと思いました。アヒルにはアヒ

▶吉田兼好は、金沢八景に住んでいた!

 徒然草を最初に読んだのは、横須賀高校の古文の授業でした。最初に読んだのは、第四十一段の「加茂の競べ馬」だったと思います。 木に登って居眠りしながら落ちそうになって見物しているお坊さんをバカにする人を叱るという話だったと思います。 まったくチンプンカンプンでした。 人はいつ死ぬかもしれないのだから、ここで見物している貴方たちも、あのお坊さんと同じなんだよ、と人生の無常を諭す話だったんですね。こんなこと、十五、六の高校生に分かるはずがありません。 吉田兼好は、京都の有名な神社の神官を世襲する名家に生まれ、若い頃は宮仕えをしていたのですが、煩雑な人間関係に嫌気がさして三十歳くらいで出家したと言われています。  この兼好が、横須賀にも近い金沢八景の近くに住んでいたということは、前から聞いていたのですが眉唾ものだと思っていました。しかし、色々と調べてみると、どうやら本当らしいのです。 【 状況証拠1】 徒然草 第三十四段 甲香 ( かひこう ) は、ほら貝のやうなるが、小さくて、口のほどの細長にさし 出  でたる貝の 蓋  なり。   武蔵国金沢 ( かねさわ ) といふ浦にありしを、所の者は、「へなだりと申し 侍  る」とぞ言ひし。   「武蔵国金沢 ( かねさわ ) といふ浦」というのは、たぶん、今の六浦のあたりだと思います。そこに法螺貝に似た貝の蓋が転がっていて、地元の人は、「へなだり」と言うんだよ、という話です。 上行寺の説明によりますと、兼好の旧居跡が上行寺の裏山の一画にあったと伝えられています。 今は埋め立てられていますが、上行寺から 六浦は当時は、目の前でした。ここで兼好が 法螺貝に似た貝の蓋を見た可能性は大です。 【 状況証拠2】 徒然草 第百十九段 鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。  かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。  兼好が住んでいた上行寺から鎌倉までは、朝比奈を越えれば歩いて1時間チョットです。兼好が鎌倉に行って、年寄りの話しを聞いていたとしても不思議で

東日本大震災から3ヶ月(1)

3月11日、昼休みの散歩を終えて4階のオフィスで仕事を始めた矢先に、それは来ました。ドンと縦揺れが来て、横に変わりました。倒れかけた独楽の軸がぶれるような揺れに変わりました。逃げるとか身の安全を守るとかを考える余裕は無く、ただ自分の体を支えて揺れが治まるのを待つのが精一杯でした。天井が抜けたら、これで終わるという恐怖感がありました。 2番目の揺れが来たときには、外にいました。電線がゆっさゆっさと大きく波打っていました。携帯は全くつながらず、部屋にも戻れず、ただ地面に足をつけているという安心感を得るために集まっていました。オフィスに戻ると、300キロもあるプリンタが1メートルも動いていました。書籍棚からは本が飛び出して散乱していました。テレビは、交通機関が止まっていると言うニュースを繰り返し流していました。 4時頃、帰宅できる人は帰って良いと言う社内放送がありました。歩いて帰るもの、会社に泊まる準備をすすめるもの、バスなどの代替交通機関を利用するもの、それぞれの考えで行動していました。食料を求めて、外に出ましたがコンビニには行列ができており、すでにカップラーメンなどは、全て売り切れていました。仕方なく、行きつけの蕎麦屋でカツ丼を食べました。 その夜は、Twitterで誘われて茅場町の水産会社の子会社に勤めている友人のオフィスで一晩過ごしました。サバの味噌煮やシャケ缶をつまみに遅くまで酒を飲んでいました。翌朝、テレビには、トラックをオモチャの自動車のように軽々と運んで行く津波の映像が映し出されていました。京急が動き出すのを待って自宅に昼前に戻りました。