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送別会のお礼

この度は、盛大な送別会を開いていただきまして、本当にありがとうございました。 在職中は、ひとかたならぬお世話になり、ありがとうございました。 振り返りますと、電電公社の民営化の翌年の1986(昭和61)年にJIPに入社して34年、前職の明星電気の9年を加算すると43年のサラリーマン人生でした。明星電気に入社して4ビットCPUによるマイコンタイマー、Z80を使った受発注端末機、出退勤装置、モデム内蔵電話などを開発しました。回路図は手書きでプリント基板も手張りで作っていました。プログラム言語はアセンブラで頭の中は8進数で埋め尽くされていました。 ⇒私の歩んだ道 hirose555.blogspot.com/2020/02/blog-post.html   その後、明星電気で私が開発した製品のサプライヤーをしていたJIPに移りました。ミイラ取りがミイラになったということですね。JIPでは、出退勤システム、MacやSONYのUNIXワークステーション”NEWS”などの機器販売のビジネスを展開する情報機器事業部に配属になりました。今はありませんが、茅場町の富士ビルやSFビルで肩を寄せ合って仕事をしていたことを昨日のように思い出します。その後、セキュリティ事業プロジェクト、ネットソリューション事業部、公共システム事業部、研究開発部、子会社の(株)JBISコンサルティングを経て、監査部で情報セキュリティを担当しました。 JIP入社当時は、まだ手書き、青焼き、パンチカード、モデム、音響カプラが現役での時代でした。PC9801、FACOM 9450、Multu16、if800、SOAD_PIPSなどが業務端末として使われていました。その後、PCが一般オフィスでも普通に使えるようになり社内文書は、和文タイプライターから一太郎、松で作れるようになりました。しばらくするとNetWare、WindowsNTなどのネットOSが普及し、社内にイエローケーブルが敷設され情報共有や電子メールができるようになりました。 今は、モバイル、スマホ、SNS、クラウド、AI、あらゆるモノがインターネットにつながるIoT、デジタル技術が生活を激変させるデジタルトランスフォーメーション(DX)の時代になり、情報技術(IT)が社会のインフラになりました。世の中がこんなに大きく変わると

送別会ありがとうございました(監査部、総務部、JTSのみなさんによる送別会)

・日時: 2020年 2月25日 18時〜20時30分 ・場所:神保町 四川料理 川芙蓉 監査部のメンバーが送別会を開いてくれました。担当役員の笠原さん、監査部長の川島さん、関口さん、高梨さん、村上さん、林川さん、熊本さん、総務部長でこのような会には必ず出席していただいている小嶋さん、前の監査部長だったJTSの高橋さんがお祝いをしてくれました。川芙蓉は、以前は留園という名前でしたが、オーナーが変わりました。個室がたくさんあって、しかも、食べ放題飲み放題で2,980円という有り難い価格設定のお店です。でも、残すと2000円の罰金がありますので、料理を頼みすぎないように注意しました。ここは、菊川さんの送別会でも使った場所です。 みなさん、一人ひとりから心温まるメッセージをいただきました。私は、このように見られていたのかということが分かり真剣に聞き入りました。送別会なので、だいぶ盛った話だと思いますが、尻こそばゆい思いをしました。お話の中で、オープンシステムインテグレーションが出てきたのには驚きました。メインフレーム全盛でパソコンが出始めた時代に、UNIXを中心としたオープンシステムが主流になると口角泡を飛ばして言っていたことを懐かしく思い出しました。 最後は、川島さんの三本締めがあり、机の上の料理もきれいに食べ尽くしました。みなさんから、JTBのギフトカードをいただきました。女房にも半分渡そうかと思っています。みなさん、本当に、ありがとうございました。

送別会ありがとうございました(旧・情報機器事業部のみなさんによる送別会)

・日時: 2020年 2月17日 18時30分〜21時30分 ・場所:日本橋 入金 2月末で会社を定年退職しますので、曽根さんが幹事で昔の情報機器事業部(以下、情機)の仲間でお祝いをしていただきました。石丸さんは、大阪から駆けつけてくれました。一緒に出退勤の特許をとった稲垣さん、訳あって少し遅れて情機に参加した粂山さん、情機で最初の新人営業だった堀さん、そして、なんと言っても、当時、星野軍団とも呼ばれていた情機の大御所の星野さんにも参加していただきました。 場所は、現役時代に、昼に良く定食を食べていた日本橋の”入金”でした。夕方の6時半からスタートして終わったのは、9時半くらいでした。ここは、店員がお年寄りが多いので、9時くらいには店を閉めるので、お店の人には少し迷惑だったかもしれません。みなさんから、高級なワインをいただきました。娘たちも飲める歳になりましたので、家族でいただきたいと思います。 昔の仲間は本当にかけがいのないものだと痛感しました。ありがとうございました。 このメンバーが集まると、いつもの話になります。何度も話した内容ですが、何度話しても面白かったです。私がJIPを受けて落ちた話、星野さんが明星電気を最初に訪ねたときに、私の態度が悪かった話、明星電気の守谷工場で徹夜で開発していて、朝を待って自家用車を使ってROM交換をした話、その時、星野さんの奥さんがおにぎりを作ってくれた話、飛島建設の食堂のシステムでエラーが多発して、その原因追求のために5000回磁気カードを読ませるテストを行ったが、原因は、基盤の逆刺しだった話、などで盛り上がりました。 今回は、JIPの情機の初期のメンバーが、どのように明星電気を知ったのかという謎が解けました。 ⇒私の歩んだ道 hirose555.blogspot.com/2020/02/blog-post.html 最近のことは忘れることが多いですが、このような大昔の記憶はなぜか残っていますね。いつか、この辺の話を小説風(仮題:情報機器物語 火の玉軍団誕生秘話)にまとめておきたいと考えています。これからも、ずっとお付き合いさせていただきたいと思います。今後とも、よろしくお願いします。

私の歩んだ道

当時、明星電気では、アイ電子測器(株)のFDPSという CP/M ベースのミニコンで開発していました。CP/Mは、Windowsの前のMS-DOSの先祖のようなOSです。これはICE( In Cercit Emurator )が付いていて、それを基板上の Z80 のソケットに挿して開発するものです。Z80は、インテルが最初に作った8080というワンチップCPUの改良版で使いやすいCPUでした。FDPSはDEC仕様のグリーンディスプレイとキーボードを接続するようになっていて、当時としては画期的な8インチのフロッピーがついていました。それ以前の機種の外部記憶装置は紙テープでした。デバッグやらトレースやらをしてバグを潰してプログラムが完成すると 紫外線消去型EPROM に書き出していました。プログラム環境は、”LD r1,r2”のように記述するアセンプラ言語で、コンパイルしてバイナリに変換してROMに焼いていました。バグが見つかると紫外線消去機で消して、再び焼くことを繰り返してやっていました。ROMの窓のところに紫外線を当てて消去して、書き込んだ後は、窓をシールで塞ぐという原始的なやり方でした。 このFDPSにディスプレイとキーボードを付けてコンパクトにまとめたABC26というミニコンがあり、それを石丸さんが、当時、後楽園にあった佐々木ビルに入っていた明星電気の本社に持ち込んだのを記憶しています。石丸さんたちは、JIPに入る前は、CSCという商社に居られましたので、開発機器などに詳しかったのです。その時、キーボードを階段から落として、キーが一つ破損しました。石丸さんが、セメダインでくっつければいい、というようなことを小声で言っていたのを覚えています。明星電気を紹介したのは、 アイ電子の青田さんということです。これが最初のきっかけなんですね。 その後は、山下システムズ株式会社の産業用マイクロコンピュータ「STD-BUSボード」が導入され、データ収集機などの大型の機械は、これで開発していました。OSはCP/Mでした。 http://www.misnet.co.jp/profile/history.html 特許庁のHP ■ 出願/取得した特許 1)1986/05/28 デ-タ処理システムへの自動アクセス方式 https://www.j-pl