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昔々の林檎の物語

昔々、林檎という果物を誰も知らない村がありました。ある時、二人の兄弟が山で遊んでいると偶然、野生の林檎の木を見つけました。

始めて口にした林檎は、今まで食べたことのない美味しい味がしました。二人の兄弟は、小さな林檎の木を1本ずつ家に持ち帰って育てることにしました。

兄は林檎を見ると、これは金儲けになると直感しました。
林檎の木の周りに厳重な柵を作って、村人の立ち入りを禁止しました。

「この林檎は、触っちゃいけないよ」

肥料をたっぷり与えて丹精して育てた甲斐があって、何年かすると大きな美味しい林檎の実が沢山なりました。兄は、「おれの林檎」と名付けて商品化しました。その林檎は、すぐに大評判になり、大儲けをしました。

弟は、このおいしい林檎を村人のみんなと食べたいと思いました。
誰からも見えて、手を出せば取ることが出来る、道端に林檎の木を植えました。

「こんなに美味しい果物があるよ」

他に仕事を持っていましたので、兄のような手厚い世話は出来ませんでしたが、林檎が好きな弟は、時間の合間を見て、一生懸命育てました。実がなるまでに時間は、かかりましたが、それなりに美味しい林檎がなりました。

しばらくすると、木の周りには小さな林檎の木が生えてきました。弟は、近所の人たちに分けたら、もっと楽しいと思い、みんなに林檎の木を配ることにしました。林檎の木のそばには、次のような立て札を立てました。

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この木は、「みんなの林檎」と呼んでください。どなたでも、ご自由にお持ちいただいて結構です。しかし、この林檎の木は他の人にも分けてください。決して独り占めしないで下さい。それから、林檎の木の近くには、これと同じ立て札を立ててください。
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何年かすると、弟が分けた「みんなの林檎」の木は色々な所に植えられました。それぞれの木には、弟の林檎の木と同じ立て札が立ててありましたので、兄の「おれの林檎」とは区別が出来ました。

ご近所同士で林檎の木の育て方を教えあったり、肥料のやり方を工夫したりして林檎の木はどんどん増えていきました。村人たちは自分で育てた林檎を食べて幸せに暮らしました。

兄の林檎はどうなったのでしょうか。弟の林檎の木が増えてから、一時期、売上は減りましたが、木を育てなくても林檎だけ食べたいと言うお客さんの要望に応えて、販売を順調に伸ばしました。

林檎ジュースなどの新商品も開発し、従業員も増やして本格的に「おれの林檎会社」を始めました。しかし、林檎の木の育て方やジュースの作り方は意地悪をして、相変わらず村人たちには教えてもらえませんでした。

兄の会社では、林檎の木が大きくなりすぎて、変な虫が付くようになり、それが悩みの種になりました。

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