湯島天神の梅まつりに行ってきました。境内は梅で埋め尽くされていてキレイでした。湯島天神の紋所も梅なんですね。何で梅がこんなに使われているのかを調べてみましたら面白い話がありましたのでご紹介します。(廣瀬隆夫)
菅原道真公は、幼少の頃から神童のほまれ高く5歳の時には、すでに、このような和歌を詠まれていたそうです。”あこ(阿呼)”は道真公の幼名です。
美しや 紅の色なる梅の花 あこが顔にも つけたくぞある (5歳の時の銅像)
(紅梅はきれいだなあ、わたしの顔にも頬紅を付けたくなったよ)
32歳という若さで文章博士となり、37歳には右大臣にまで上り詰めました。右大臣とは、最高位の左大臣を補佐する副総理のような役職だったようです。順風満帆だった道真公ですが、宇多天皇が道真公ばかり重用していたことに不満を抱いた左大臣の藤原時平の政略により、身に覚えのない罪によって901(延喜元)年に、大宰府へ左遷させられてしまったのです。
道真公は、京都の屋敷の庭に梅、桜、松の木を植えて愛でていました。特に梅に思い入れが深く、別れを惜しんで梅の木に語りかけるように詠んだのが、次の歌です。
東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ
(梅の木よ、私が大宰府に行ってしまったからといって、春の到来を忘れてはならないよ。春の東風が吹いたら芳しい匂いの花を咲かせておくれ)
道真公を慕う庭木のうち、桜は悲しみのあまり、みるみるうちに葉を落とし、ついには枯れてしまったそうです。しかし、梅と松は、空を飛んで道真公の後を追ったそうです。松は途中で力尽きて、兵庫県神戸市須磨区板宿町の「飛松岡」と呼ばれる丘に降り立ち、この地に根を下ろしたそうです。これは飛松伝説として残っています。
https://itayadohatiman.jimdo.com/当社について/神社の由緒/
最後に残った梅は、見事に、その日の夜のうちに主人の暮らす大宰府まで飛んで行き、その地に降り立って根付きました。 樹齢1000年を超えるとされる白梅が、御神木として、今でも太宰府天満宮に残っています。
https://www.dazaifutenmangu.or.jp/info/detail/412
菅原道真公は、大宰府に流されてわずか2年後の903(延喜3)年に病のため遠い異国の地で亡くなりました。 享年59歳でした。
後年、道真公を祭神とする神社に株分けされたものが各地の神社に植えられ、花を咲かせていると言うことです。飛梅の逸話は、荒唐無稽な話ですが、菅原道真公がどれだけ梅を愛していたかが分かる逸話です。湯島天神の梅も菅原道真公の飛梅から株分けされた梅と思ってもう一度、眺めてみてください。
【参考】
https://ja.wikipedia.org/wiki/飛梅
【太宰府天満宮の飛び梅(撮影:Akiko Yoshidaさん)】
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おまけ:<<菅原道真公と牛>>
道真公が都にいた頃、住まいの中に子牛が迷い込んできて、可愛がって大事に育ててました。大きくなるとやがて何処とも知れず去って行きました。道真公が、無実の罪で大宰府に流される途中、大阪の道明寺にいる伯母に別れの挨拶のために訪ねたところ、刺客に襲われました。その時、以前に飼っていた牛が何処からか現れて、その刺客を追い払って道真公を助けてくれたという伝説があります。
また、道真公が大宰府に流された2年後に亡くなられたときに、遺骨を葬るために柩を牛に曳かせて家を出ると、その牛が突然路傍に伏臥して動かなくなってしまいました。従者達は「ここに埋めよ」との告知であろうと、この地に墓所を造ったという話も伝わっています。
このような伝説的な物語が生まれて、道真公と牛とのつながりは益々深くなったと思われます。
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