スキップしてメイン コンテンツに移動

人生を楽しむ方法

「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」とは、方丈記の出だしだが、川の水が昨日と違うとのは当たり前だ。しかし、これが、なかなか分からない。建物や道路は、何年経っても変わらないし、毎日の生活は、同じことのくり返しに見える。しかし、世の中の全てのものは、常に移り変わっている。

ゴルフ場の芝も生えては枯れるということを繰り返しながら緑を保っている。芝生はずっと同じものがあるように見えるが、一本一本の芝を詳しく見れば、入れ替わっている。人間の細胞も、日々、入れ替わっているらしい。人間の細胞は3ヶ月くらいで全て入れ替わってしまうらしい。3ヶ月前の自分と今の自分は、細胞レベルで見ると別人なのである。庭の芝生と大差はない。

細胞はタンパク質のかたまりで遺伝子に操られている。ガン細胞と言うのは、遺伝子のどこかに傷が付いて分裂が止まらなくなったコントロールができない暴走族のような細胞らしい。新聞の三面の死亡欄を見ると、あんなに元気だったのに何でこんなに早くガンで亡くなってしまったのか、と思うことがある。でも、3ヶ月で体中の細胞が入れ替わってしまうのなら、それも納得できる。

風邪などをひいて調子が悪くなると気持ちが落ち込んでこのまま死んでしまうのではないか、と思うこともある。でも、医者に行くと、すっと憑き物が取れたように直ってしまうことが多い。医者に行こうと言う気持ちになった時点で病気は直っていたのではないかと思う。悪い細胞が入れ替われば病気は直る。これが自然治癒というものなのだろう。

世の中の全てのものが流転する。鴨長明も兼行も何百年前から言っている。これは真理と言って良いだろう。これに反して、今の幸福がずっと変わらないで続いて欲しいと考えること自体が間違っている。

全てのことは、変わるものだと最初から思ってしまえば良い。幸福は、仕合せとも書く。英語ではHappy。どちらも偶然のめぐり合わせという意味だ。幸福がずっと続くことはありえない。幸福だなぁということがあっても、こんなことは長くは続かないと思えば良い。幸福なんて宝くじに当たったようなものと考える。逆につまらないことがあっても、今に良いこともあるさ、と思うことにする。

ローカル線に乗って車窓から遠くの景色を眺める旅人のように、変化を受けいれて、目の前で移り変わっていく景色を楽しむ。そして、それ以上は何も望まない。

コメント

このブログの人気の投稿

▶上野の金色のアヒルの謎

昼休み、上野を歩いていましたら、京成上野駅の近くにある金色のアヒルの像が目に止まりました。そこには、川柳の原点「誹風柳多留発祥の地」と書いてありました。平成27年8月に柳多留250年実行委員会と台東区教育委員会の人たちが建てたものらしいのです。樽には「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」という川柳が彫られていました。 Googleで調べましたら 誹風柳多留(はいふうやなぎたる) は、1765(明和2)年から1840(天保11)年まで毎年刊行されていた川柳の句集だそうです。 このアヒルの句は「木綿」と号した誹風柳多留の編者の 呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし) の作ということでした。呉陵軒可有という奇妙な名前は「御了見可有」という慣用句をもじった名前で「堪忍して下さい」という意味があるそうです。句会で、いつも賞品をさらってしまう人で「な~んだ、またあんたかね」という軽い羨望と嫉妬の声に、「ご了見、ご了見」と答えていたところから、この名前がついたと言われます。 誹風柳多留と樽をかけて、その上に金のアヒルを置いたものらしいです。樽の謎は解けましたが、問題は、誹風柳多留の中の数ある川柳の中からアヒルの句が何で選ばれたのかということです。 川柳 は、俳句と同じ五七五ですが、俳句には季語や切れ字の約束がありますが、川柳にはそういう規律がなく、かなり自由です。俳句が自然や風景を詠うことが多いのに比べて、 川柳は題材の制約がなく 、人の暮らしや出来事、人情までも扱われます。 そのため、政治批判、博打、好色など風紀を乱すとされた句も詠まれて、お上から忠告された時代もあったそうです。その後、風流、ワビサビを追求する俳句とは違った路線を歩むことになります。会社員の悲哀を詠ったサラリーマン川柳などはその好例でしょう。 「いい家内 10年経ったら おっ家内」( サラリーマン川柳 傑作選より ) そこで、「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」の句です。鷹のように大空高く飛ぶことができる鳥を俳句だとすると、川柳はアヒル。アヒルだって羽を持っているのだから、言い訳ほどだけど、少しは飛ぶことはできるのだよ、という斜に構えた皮肉を込めた意味だと思います。 記念碑の横の石碑には「孝行を したい時分に 親はなし」の句が彫ってありました。ずばりと真実を突いて、うまいこと言うなと思いました。アヒルにはアヒ

▶吉田兼好は、金沢八景に住んでいた!

 徒然草を最初に読んだのは、横須賀高校の古文の授業でした。最初に読んだのは、第四十一段の「加茂の競べ馬」だったと思います。 木に登って居眠りしながら落ちそうになって見物しているお坊さんをバカにする人を叱るという話だったと思います。 まったくチンプンカンプンでした。 人はいつ死ぬかもしれないのだから、ここで見物している貴方たちも、あのお坊さんと同じなんだよ、と人生の無常を諭す話だったんですね。こんなこと、十五、六の高校生に分かるはずがありません。 吉田兼好は、京都の有名な神社の神官を世襲する名家に生まれ、若い頃は宮仕えをしていたのですが、煩雑な人間関係に嫌気がさして三十歳くらいで出家したと言われています。  この兼好が、横須賀にも近い金沢八景の近くに住んでいたということは、前から聞いていたのですが眉唾ものだと思っていました。しかし、色々と調べてみると、どうやら本当らしいのです。 【 状況証拠1】 徒然草 第三十四段 甲香 ( かひこう ) は、ほら貝のやうなるが、小さくて、口のほどの細長にさし 出  でたる貝の 蓋  なり。   武蔵国金沢 ( かねさわ ) といふ浦にありしを、所の者は、「へなだりと申し 侍  る」とぞ言ひし。   「武蔵国金沢 ( かねさわ ) といふ浦」というのは、たぶん、今の六浦のあたりだと思います。そこに法螺貝に似た貝の蓋が転がっていて、地元の人は、「へなだり」と言うんだよ、という話です。 上行寺の説明によりますと、兼好の旧居跡が上行寺の裏山の一画にあったと伝えられています。 今は埋め立てられていますが、上行寺から 六浦は当時は、目の前でした。ここで兼好が 法螺貝に似た貝の蓋を見た可能性は大です。 【 状況証拠2】 徒然草 第百十九段 鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。  かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。  兼好が住んでいた上行寺から鎌倉までは、朝比奈を越えれば歩いて1時間チョットです。兼好が鎌倉に行って、年寄りの話しを聞いていたとしても不思議で

東日本大震災から3ヶ月(1)

3月11日、昼休みの散歩を終えて4階のオフィスで仕事を始めた矢先に、それは来ました。ドンと縦揺れが来て、横に変わりました。倒れかけた独楽の軸がぶれるような揺れに変わりました。逃げるとか身の安全を守るとかを考える余裕は無く、ただ自分の体を支えて揺れが治まるのを待つのが精一杯でした。天井が抜けたら、これで終わるという恐怖感がありました。 2番目の揺れが来たときには、外にいました。電線がゆっさゆっさと大きく波打っていました。携帯は全くつながらず、部屋にも戻れず、ただ地面に足をつけているという安心感を得るために集まっていました。オフィスに戻ると、300キロもあるプリンタが1メートルも動いていました。書籍棚からは本が飛び出して散乱していました。テレビは、交通機関が止まっていると言うニュースを繰り返し流していました。 4時頃、帰宅できる人は帰って良いと言う社内放送がありました。歩いて帰るもの、会社に泊まる準備をすすめるもの、バスなどの代替交通機関を利用するもの、それぞれの考えで行動していました。食料を求めて、外に出ましたがコンビニには行列ができており、すでにカップラーメンなどは、全て売り切れていました。仕方なく、行きつけの蕎麦屋でカツ丼を食べました。 その夜は、Twitterで誘われて茅場町の水産会社の子会社に勤めている友人のオフィスで一晩過ごしました。サバの味噌煮やシャケ缶をつまみに遅くまで酒を飲んでいました。翌朝、テレビには、トラックをオモチャの自動車のように軽々と運んで行く津波の映像が映し出されていました。京急が動き出すのを待って自宅に昼前に戻りました。