3月11日、昼休みの散歩を終えて4階のオフィスで仕事を始めた矢先に、それは来ました。ドンと縦揺れが来て、横に変わりました。倒れかけた独楽の軸がぶれるような揺れに変わりました。逃げるとか身の安全を守るとかを考える余裕は無く、ただ自分の体を支えて揺れが治まるのを待つのが精一杯でした。天井が抜けたら、これで終わるという恐怖感がありました。
2番目の揺れが来たときには、外にいました。電線がゆっさゆっさと大きく波打っていました。携帯は全くつながらず、部屋にも戻れず、ただ地面に足をつけているという安心感を得るために集まっていました。オフィスに戻ると、300キロもあるプリンタが1メートルも動いていました。書籍棚からは本が飛び出して散乱していました。テレビは、交通機関が止まっていると言うニュースを繰り返し流していました。
4時頃、帰宅できる人は帰って良いと言う社内放送がありました。歩いて帰るもの、会社に泊まる準備をすすめるもの、バスなどの代替交通機関を利用するもの、それぞれの考えで行動していました。食料を求めて、外に出ましたがコンビニには行列ができており、すでにカップラーメンなどは、全て売り切れていました。仕方なく、行きつけの蕎麦屋でカツ丼を食べました。
その夜は、Twitterで誘われて茅場町の水産会社の子会社に勤めている友人のオフィスで一晩過ごしました。サバの味噌煮やシャケ缶をつまみに遅くまで酒を飲んでいました。翌朝、テレビには、トラックをオモチャの自動車のように軽々と運んで行く津波の映像が映し出されていました。京急が動き出すのを待って自宅に昼前に戻りました。
2番目の揺れが来たときには、外にいました。電線がゆっさゆっさと大きく波打っていました。携帯は全くつながらず、部屋にも戻れず、ただ地面に足をつけているという安心感を得るために集まっていました。オフィスに戻ると、300キロもあるプリンタが1メートルも動いていました。書籍棚からは本が飛び出して散乱していました。テレビは、交通機関が止まっていると言うニュースを繰り返し流していました。
4時頃、帰宅できる人は帰って良いと言う社内放送がありました。歩いて帰るもの、会社に泊まる準備をすすめるもの、バスなどの代替交通機関を利用するもの、それぞれの考えで行動していました。食料を求めて、外に出ましたがコンビニには行列ができており、すでにカップラーメンなどは、全て売り切れていました。仕方なく、行きつけの蕎麦屋でカツ丼を食べました。
その夜は、Twitterで誘われて茅場町の水産会社の子会社に勤めている友人のオフィスで一晩過ごしました。サバの味噌煮やシャケ缶をつまみに遅くまで酒を飲んでいました。翌朝、テレビには、トラックをオモチャの自動車のように軽々と運んで行く津波の映像が映し出されていました。京急が動き出すのを待って自宅に昼前に戻りました。
コメント
毎日お昼に緊急地震速報のテストをやって
いました。(あの当日まで)
あのチャイム音(著作権NHK)がテストで
毎日鳴っていました。
あの日、たまたま買い出しでお昼過ぎまで外出していてお昼のテスト放送は聴けなかったのですが、あのとき(本番の)速報が鳴ったときは、一瞬いつものテスト放送だと思ってしまいました。しかも第一報は強い揺れ地域は東北のみで、東京や関東は強い揺れ地域に入っていなかったと思います。
揺れ始めてしばらくして本当の強い揺れが
やってきてさらに強くなるのではと思いました。
強い揺れは余震ではなく3つとも場所の違う
本震だったのも驚きでした。
Naoto27