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「団地はまちのおもちゃ箱」報告

団地はまちのおもちゃ箱 報告者:祐二之田仲

・日時:令和元年10月16日(水)13:00~14:00
・会場:日経ホール(東京都千代田区大手町)
・講演:山田五郎氏(コラムニスト)
・主催:独立行政法人UR都市再生機構(技術・コスト管理部 技術調査課)
・受講者:約450名
(シンポジウム「令和元年度 URひと・まち・くらしシンポジウム」)

【山田五郎氏の略歴】
1958年12月5日生まれ。東京都渋谷区出身。上智大学文学部新聞学科卒業し、同大在学中にオーストリアのザルツブルク大学へ留学、西洋美術史を専攻。卒業後講談社へ入社。2004年6月に講談社を退社し独立。現在はフリーの編集者、評論家、タレント、コラムニストとして活動している。(ウィキペディアより)

公演タイトルの「団地はまちのおもちゃ箱」のとおり、アクティビティとコミュニティの場のある持続可能な社会を考えるというものでした。講演内容と私の感想、追記も含めて報告します。

住宅公団は戦後、住宅供給のために、内務省によって1924(大正13)年に設立された財団法人の同潤会により日本住宅公団法に則って1955年設立されました。大量の住宅を供給するために、集合住宅地を整備することを目的に作られたものです。これ以降、集合住宅が「団地」と呼ばれる様になりました。

歴史的には、産業革命以降の欧州で、都市に居住する労働者の住宅環境を改善するために建設された集合住宅に遡ることができます。前記の住宅営団、住宅公団も、住宅に困窮する勤労者のために住宅や宅地の供給を行ってきたのです。
   
その結果、団地は高度成長期には、均質な労働者のための住まいとなりました。近代主義が行き詰まり、ポストモダンが叫ばれる現在においては、団地は陳腐化しています。

今では、団地は、まちの均質化を助長する仕かけになってしまいました。
・入居者の均質化(均質なのでコミュニティの必要がなくなる)
・ライフスタイルの均質化(同じような人が集まっている)
・中間層が厚くなる。(均質な住民であるため、中間層に集約される)

これからの都市は、異質な人々が集まって新しい文化を創っていかなければならないと思います。団地の陳腐化を阻止するために、均質化をくいとめ、多様な文化を持ったまちにすることが重要だと思います。

そもそも日本では多様なまち造りが行われていました。江戸は、下町(ダウン・ダウン)と山ノ手(ヒル・サイド)が入り組んだ構造になっており、下町は、庶民、町民、職人が住み、山ノ手は、屋敷住民、武家、商豪が住んで様々な住居が入り込んだ多様な文化を持ったまちでした。

最近は、子どもの教育は都市でなく、自然の多い郊外や田園が良いと考える親が増えてきました。その結果、家族が都市を出て行ってしまう傾向があります。そのような場所で育った子どもたちは、人との交流やコミュニケーションの仕方が身につかなくなるのです。子ども時代に触れ合うべきは自然より人です。子どもの精神的な成長のためには、まちに子どもたちが遊べるコミュニティの場を設けなければならないと思います。

まち創りをする進める意味は、人々が多様な交流をすることにより、社会を活性化させることです。しかし、建て替えで家賃が上がると、ジェントリフィケーション(gentrification)を促進させます。ジェントリフィケーションとは、再開発や新産業の発展などの理由で比較的豊かな人々が流入し、地域の経済・社会・住民の構成が変化しエレガントで高価な都市に再編されるという現象です。

居住者の階層が上流階級に移っていき、昔の”紳士”が回帰して住むようになるので、こう呼ばれているのです。まちは、お金を持った人たちだけの均一化したものになってしまう。日本でも京都でジェントリフィケーションの傾向があり、西陣地区の繊維工場の跡地を再生した結果、織物職人、繊維技術者が集まるまちになっています。

現在、社会問題となっている非行少年、ひきこもり等は、それが見えていれば管理、対応ができます。しかし、見えないところに潜在したり、家に閉じこもったりするので対処が難しくなるのです。まち社会に、コミュニティの場が必要なのはこのためです。

原宿は、数十年前は家賃が安くて、低収入の若いデザイナーや芸術家が多く移り住み、文化、ファッションのまちとなり、今の原宿文化が作られたのです。現在、原宿は、億ションの建ちならぶ、若者が住めないセレブの街となってしまいました。

日本は土木建築業界が経済を支えていると言われています。スクラップ&ビルドすることが、まちを再生すること、日本文化だとされています。古い商店街や店舗は、すぐに壊されて建て直され、商店街の住人は追い出されて、そこにはチェーン店、ファーストフード店、量販店等の大資本の店舗が入ります。これらで売られる商品、サービスは、当然、均質化されたものです。これでは、多様性による新しい文化、ライフスタイルを醸成する余地がないのです。

業者はスクラップ&ビルドを推し進める理由に建物の耐用年数の短さを挙げます。建物の寿命は、木造住宅で25年、コンクリートが50年と言われています。本当でしょうか。これは日本の建築業界が言ってるだけのことであり、自分が留学したヨーロッパでは古代、中世からの建物が現存していて、数百年前の集合住宅に今でも人が住んでいました。

ヨーロッパには、古代建築のローマのパンテオンなどの古い建物が現存しています。日本でも、木造の法隆寺などの古い建物がたくさん残っています。建物を作る時から何百年も持つ設計をし、適切なメンテナンスや補修を行っていれば、無駄なスクラップ&ビルドは、少なくなるのです。

そこで、UR都市機構さんへ、次のことを提言をしたいと思います。これから先も持続可能な団地にするためには、おもちゃ箱のようなワクワクする集合住宅が必要です。

・その1:リノベーションの促進
すぐに建て替えるのではなく、団地は、家賃を抑えるために、出来る限りリノベーションして欲しいと思います。低成長の時代、地球環境を守るべき時代、リノベーションは重要です。団地の家賃が安くなれば多様な人たちが集まり、かつての原宿のように、新しい文化、ライフスタイル、コミュニティが生まれます。これは、民間ではなく、公団だからこそできるのだと思います。

・その2:カスタマイズ可能なIoT化住宅
赤羽台団地(※)のように、最先端のITを駆使して、根本から考え直した集合住宅を作ったらどうでしょうか。公団は、建物という箱を用意し、IoT機器の設置、配線の変更をし易い構造にするのです。その結果、居住者が自分でカスタマイズでき、個々の生活にマッチし多様化した住居になり、さまざまな人が集まってくるのではないでしょうか。新しい文化のまちつくりとしてコミュニティをIoT等で活性化したらどうかというご提案です。

※ 赤羽台団地スターハウスは、元東大教授で現在は東洋大学教授の坂村健氏のINIADコンセプトに基づき公団と研究開発中の団地です。

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