時は天和2年(1682年)、上野の桜が咲きほこる春の日のことでございます。近所に住んでいた芭蕉一門の宝井其角(たからいきかく)に幼い頃から俳諧を学んだという才媛、日本橋小網町の和菓子屋の娘、お秋は上野公園へお花見に参りました。そこで早速、花見酒に酔う人を見て一句浮かびました。
井戸端の 桜あぶなし 酒の酔
花見客を想って上野の清水堂の脇にあった桜の枝に、この歌をくくりつけたのです。上野寛永寺に参った公寛法親王(こうかんほうしんのう)がお通りになり、お秋の歌に目をお止めになりました。親王はその句がたいそうお気に召し、歌を詠んだ本人に会いたいと、彼女に謁見の場を設けました。ところが会ってみると僅か13歳の少女だったことに感激し、お秋は一躍、時の人となりました。
月日が経ち、お秋は菊后亭秋色(きくごていしゅうしき)という俳号を名乗り、元禄の四俳女のひとりと言われるほど有名になりました。ある時、俳諧をよくした松山藩2代藩主、安藤信友の目に止まり、屋敷に招かれることとなりました。滅多にない機会だからと、父親もお付きの人に成りすまし、用意された駕籠にお秋を乗せ一路お屋敷へ参った帰路のことでございます。
あいにくの冷たい雨が降り始めました。お秋は「お腹が痛いので薬を買って来てください」と、かご屋にお願いしたのです。年老いた父親を雨の中で歩かせて、自分だけが駕籠に乗っているのが心苦しくなったお秋は、かご屋がいない隙に父親を駕籠に乗せる算段をしたのでした。お秋は父親が身に着けていた粗末な笠と合羽を身にまとい、そのまま家に帰りました。
家に駕籠が着くと、降りたのはお秋ではなく、お付の人のはずの父親だったことに、かご屋は肝をつぶしました。お秋は、このことが知れると、くれぐれも内密にしておいてください、と懇願しましたが、たちまち、この親孝行な娘の話が江戸中に広まり、国周や国芳がその情景を錦絵に描くまでになったのです。
この井戸端の句は、今でも春先の桜のころになると講談の演目として扱われており、お秋は「秋色桜」という話に出てまいります。秋色桜は上野公園内の清水観音堂脇で、現在9代目の桜の木が今でも現役で花を咲かせております。和菓子屋「秋色庵大坂家」として、三田に店を移して、今でも美味しいお菓子を作り続けております。
(参考)
https://www.o-sakaya.com/syuushiki/more.html
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