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白い恐怖

これも実際にあった話です
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診療所のレントゲン室に入ると紙コップに白い液体を渡された。

「一気に飲んでください」

ガラスごしに、めがねをかけた男が言った。
どろりとした白い液体は、決してうまいものではなかった。

冷 たい金属の取っ手を握らされて仰向けに寝かされた。体全体が傾いてぐるぐる回された。つらい体勢が強いられた。息を止めろ、げっぷは我慢しろ、と無理を 言われた。ここではガラスの向こうのめがねの男の権力は絶大だった。どんなワガママも許されなかった。こんな姿を子供たちには見せたくなかった。

「もう少し辛抱してください」と言って、めがねの男は、こぶし大の白いプラスチックのかたまりで、お腹を圧迫しながら何枚もレントゲン写真を撮った。そこは、みぞ落ちの少し下のあたりだった。彼が何でそこに興味を持っていたかは数週間後に分かった。

何日かしてお腹から白い固形物がすっかり出てしまうとバリウム検査のことなど忘れてかけていた。その日も、いつものように、ゆっくりと、メバルの焼魚定食を平らげてから、会社の席に戻った。机の上には見なれない灰色の封筒が置いてあった。

封を開けると、胃集団検診結果のお知らせ、という書類が入っていた。いかにも、ワードで作ったという味気ないものだった。

中には、こんなことが書いてあった。

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結果:<E>
所見:胃潰瘍瘢痕があるため胃カメラによる再検査が必要です
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瘢痕というのは難しい漢字だ。辞書で調べたら、はんこん、と読むらしい。傷あと、という意味だ。医者は、何でこんなに難解な字を使うのだろう。

「3月17日午前10時30分に当診療所の一階受付までお越し下さい」
こちらの都合の入り込む余地のない一方的なアポイントが書いてあった。

この結果<E>というのはどのくらい悪いものなのだろうか。判定のランクの<F>には、治療または服薬が必要と書いてあった。その一つ前というランクから判断するとかなり悪いのかもしれない。困ったことになった。

し だいに、みぞ落ちの辺りが気になってきた。バリウム検査のとき、めがねの男が執拗に写真を撮っていた個所だ。ここに何か病変があるのかもしれない。めが ね男は、それを見つけて医者に密告したに違いない。それからと言うもの、飯を食っても全く旨くない。砂をかむような感じ、とはこのことをいうのだろう。大 田胃散を飲んでみたが少しも良くならなかった。

検査の日は、どんよりと曇った嫌な天気だった。鉛色の雲が空一面を覆っていた。重い足取りで診療所へ向かった。地下鉄の階段を降りる時の衝撃が胃に伝わっただけで、みぞ落ちに鈍痛が走った。

ただ事ではない。

胃潰瘍ならまだ良いが悪性の腫瘍ということも考えられる。頭の中に大きく「癌」という字が浮かんだ。染色体に傷を負った細胞が狂ったように増殖を始め、次第に体全体を蝕んでいく不治の病。そんな最悪の事態も考えざるを得なかった。

昨 夜の風呂場のクモ事件を思い出した。風呂場に大きいクモが出た。子供たちが騒いで追いかけ回していたが見失った。最後に入った自分が風呂桶の底に沈んだ 黒い固まりを発見した。それは糸くずの様に長い足を絡めて動かなかった。元気に逃げ回っていたクモが、わずかな時間で物質に変わっていた。自分には、ま だ、やり残したことが沢山あった。

受付の若い女性は、ゴム印を押して無造作に書類をケースに放り込んだ。

「3階の待合室に行って下さい」

こちらは、生死を賭けてきているのに、もう少しぬくもりのある対応が出来ないものかと思った。

待合室には、緑色の貫頭衣を着た暗い顔をした人たちが、何人も座っていた。うつむいて、髪の毛をかきむしっている人もいた。肩には苦悩を物語るおびただしい量のふけが積もっていた。

最初に血圧を計ったが、いつもより高めだった。胃の中の病巣が血圧も上げているのかもしれないと思った。

胃 を柔らかくするという注射を二の腕にされると、胃のしこりが急に無くなったような感じがした。その後、のどをしびれさせるというゼリーのようなものをス プーンで口に入れられた。喉に溜めて3分間上を向いていると感覚が無くなってきた。残ったゼリーを飲むといやな味がした。その後にスプレーを口に吹きつけ られた。

10分くらい待たされて硬いベッドがある検査室に通された。

中には、優しそうな看護婦さんと、胃カメラを持った白衣を着た若い医者が立っていた。

「こんな若い医者で大丈夫なんだろうか」

後ろに、ベテランらしい医者が心配そうな顔をして立っているところを見るとインターンなのかもしれない。運が悪いと思った。

置いてある胃カメラを見るとそれだけで吐き気をもよおした。こんなでかい物が腹の中にはいるかと思うとぞっとした。心臓の鼓動が速くなった。

心情を察したように、看護婦さんが背中を優しく支えてベッドに横たわらせてくれた。口には、ボクサーが使うマウスピースのようなものが噛ませられた。体勢が決まると気持ちが落ちついてきた。ここまで来て、じたばたしてもどうにもならない。まな板の鯉とはこのことだろう。

若 い医者は何の前触れも無く口の中に胃カメラのついた管を差し込んでいった。ドラムに巻かれたケーブルをマンホールの穴に送り込んでいる工事人の動作に似 ていた。目の前に10インチくらいのカラーディスプレイが置いてある。その一部始終が小さいディスプレイに映し出されている。まるでミクロの決死圏の乗組 員になったような感じだった。

最初に喉を通るときが苦しかった。しかし、そこを過ぎると少し楽になった。見たくなくても画面の映像が目に 入ってくる。そんな位置に置いてある。カメラは 食道を通ってどんどん奥へ進んでいく。胃の中に入るとひだのようなものが見えてきた。高校の教科書で見たものと全く同じだった。

胃の中を なめまわすようにカメラが動く。まるで生き物のようだ。もっと奥へ行きますよ、と言ってカメラはさらに送り込まれていく。しばらくして十二指腸に 到達しました、という声が聞こえた。腹の壁にカメラが触れた異物感と鈍い痛みが同時に感じられた。若い医者は獲物を見つけたハイエナのように写真をバシャ バシャと撮った。そこは、ちょうど、例のみぞ落ちの下のあたりだった。やはり、ここに何か悪いものがあるのかもしれない。疑いは確信に変わろうとしてい た。

その撮影で目的を達成したと言わんばかりに撮影は突然、終わりになった。息を抜くと、入れるときの苦しさは嘘のように簡単に管は抜けた。

もう、こんな経験はしたくないと思った。

「晩酌を飲みません/夏になってもビールを飲みません/寝酒もやりません/ご飯は腹八分目にします/硬いものは良くかみます/ストレスは溜めません/キムチは食べません」

検査の間中、こんなことをずっと考えていた。終わったときには、目じりから、うっすら涙が流れていた。

終わるとすぐに、若い医者は、硬いベッドの前で写真の解説を始めた。5、6枚の写真を透かし板の上に手際良く並べた。胃のひだのような物がカラーで写っていた。

「だいぶ悪いんでしょうか」
覚悟を決めて、目の前の若い医者に尋ねた。

医者は、写真を見ながら、口をへの字にして、少し間を置いた。
その数秒が、とても長く感じた。

「・・・・・・・・・」

若い医者は、唐突にしゃべりだした。
「きれいなものですよ。特に異常は認められません。何年か前の胃潰瘍の跡が残っていますが、すっかり良く直っていますよ」

意外な言葉が若い医者の口から出てきた。そんなはずは無い。

「胃に鈍痛があるし食欲もないんです。本当に何ともないんでしょうか」

「精神的なものですよ。バリウムの間接撮影では、何も悪くないのに影が写ることがあるんです。それを間違って判定することがあるんです。良くあることです」

間 違いか、良くあることか、医者のやることなら、それで済まされるのか。バリウム検査の判定ミスさえなかったら、今ごろは旨い焼き魚定食を食っていたはず だ。君たちのお陰で、こんな半病人になって、何週間もまずい飯を食ったんだ。どうしてくれる。この時間を返してくれ。長い間、人の体をもて遊んでおいて謝 罪の一言もないのか。これは一種の冤罪ではないかと思った。

しかし、そんなことより、みぞ落ちの下の胃袋の中に何もなかったということの 喜びの方が遥かに大きかった。頼りなさそうに思えた若い医者が、ずいぶん立派 に見えた。彼のおかげで、死の底から生還できたという感謝の気持ちでいっぱいだった。その若い医者に丁寧に挨拶をして検査室を出た。

診療 所から外に出ると、空が明るくなって雲の隙間から光が差し込んでいた。暗黒の長いトンネルからようやく抜け出せた感じだった。まだらに青い空が見え隠 れする雲間を見ていると急に腹が減ってきた。行きつけの定食店に入って、ほっけの焼き魚定食を食べた。こんな旨い食べ物はないと思った。

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