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電車の中の困った話

電車の中で実際に起った話をまとめました。


◇◆◇ (1) 「不揃いな靴たち」


その日も、忙しく朝が始まった。毎朝6時半に目覚ましがなった。一度、目を覚ましたが、まだ時間があると眠い頭の甘い判断でベルを止めた。次に気づいたときは、一刻の猶予も許されない7時を過ぎようとしていた。

急いで起きると隣に寝ている娘も気配を感じて目をさました。こんなときに限って子供のトイレが長い。着替えをして作ってもらったトーストパンをポケットに入れていつもより5分程遅く家を出た。とにかく、玄関に置いてある靴を引っ掛けて走り出した。

左の靴の履き具合が良くないようだ。ちゃんと履けていないのだろうと思って足元に違和感を感じながらもバス停まで走り続けた。

すぐにバスは来た。比較的空いていたので中ほどの席に座った。履き具合の悪い左の靴を履き変えてみようと思い靴を見た。靴はちゃんと履けている。右の靴を見た。こちらも良いようだ。何にも問題は無い。

そこで、両方の足元を見比べてみた。

一瞬目を疑った。

右と左の靴が違っていたのだ。

靴を間違えたらしい。そんなことも気づかなかったのだ。左の靴は、典型的な黒のウォーキングシューズ、右のは磨き上げられたオーソドックスな紳士靴である。何と言うミスマッチ。

カーと顔が赤くなるのを感じた。

スーツできめているサラリーマンが左右違った靴を履いているのは滑稽に映ることだろう。しかし、家に戻ったのでは電車には間に合わない。月曜日にはミーティングがある。遅刻は許されない。しばらく頭の中で激しい葛藤があった。結局このまま会社に行くという結論に達した。

そんなことを考えている間もにもバスは駅に向かってまっしぐらに進んでいた。もう後戻りはできかった。

電車は出来るだけ混んでいるところを選んだ。そのほうが靴が目立たないと思った。

乗り換えの道では出来るだけ端っこを歩いた。片方から見れば左右が違っていると気づかないだろうと思った。

東西線で座れたが、うぶな女子高生のように足が目立たないように出来るだけ座席の奥にしまいこんだ。

駅から会社までが随分長く感じた。知っている人に会わないことを祈った。

席に付いてすぐにスリッパに履き代えたら、ふうっと大きな息が出た。長い旅が一つ終わったという感じだった。

昼休み、早めに飯を食べて、近くのデパートに靴を買いに言った。予期せぬ出費だが、人の目を気にして過ごすよりよっぽど良いと思った。最近の靴売り場には、おせっかいな店員がいないので助かった。トイレの中で履き代えて左右揃った靴を履いて町に出るとようやく社会の一員に戻れたような感じがした。

このことがあってから、電車の中などで気を付けて前に座っている人の靴を見ることにしている。しかし、今のところ、左右違う靴を履いた人にであったことはない。


◇◆◇ (2) 「10分間の攻防」


雨の朝は誰もが憂鬱になる。このままずっと寝ていたいという誘惑と何年戦ってきたことだろう。その日も目ざまし時計が7時になろうとしていた。急いで身支度を整えて牛乳をがぶ飲みしてバスに乗った。

金沢八景から日本橋まで京浜急行で1時間。横浜で東海道線に乗り換えて新橋経由で行くと、運が良ければ50分で到着する。しかし、この経路を選ぶのは賭だった。運行距離の長い東海道線はダイヤの乱れが多くて、10分くらいすぐに遅れるからだ。その日は、運に賭けて横浜で東海道線に乗り換えることにした。

幸運にも今日は、ダイヤの乱れはないようだ。混雑した電車の中に乗りこんで安心すると下腹部に重い痛みを感じ出した。やばい。今朝、がぶ飲みした牛乳がいけなかったらしい。前を見るとちょうど、その車両にはトイレがついていた。冷や汗を額に浮かべて必死の形相でトイレに向かった。川崎当たりでトイレが空いた。大事には至らなかった。

新橋には、定刻通り着いた。これで10分の遅れは完全に取り戻せた。しかも、お腹もすっきりした。その後も順調で、日本橋で地下鉄の東西線に乗り継いだ。ふ〜。ここまで来ればひと安心とバッグを網棚に放り出して、しばしのくつろぎを得た。

うとうとして、気付くと降りる駅の一つ手前の木場を過ぎていた。いけない、次で降りなければならない。時計を見ると9時10分前だった。駅から会社まではゆっくり歩いて5分。これで、どうにか定時に間に合いそうだ。東陽町の駅でドアが開いた。降りようとしてバッグを網棚から取ろうとした。

バッグが網棚から離れない。

後ろ髪を引かれる思いとはこのことだろう。何が起こったんだ。網棚に目を移すとバッグに付いた金属のフックが、ちょうど網目にひっかかっている。何でこんなにうまくひっかかったのだろう。

焦れば焦るほど指先は思うように動かなかった。電車のベルが鳴る。この異常事態に周りの人も反応して席を空けてくれた。しかし、この密室の事件を全く知らない駅員は無情にも定刻通り扉を閉め、電車は東陽町の駅を静かに滑り出した。

この時点で、全てが終わったと思った。

全身の力が抜けた。隣の南砂町の駅で絡まったフックがようやく取れたが、それは、もう、どうでも良かった。完全な遅刻だ。この長い道のりであらゆる手を尽くして短縮した10分が最後の最後で微塵に砕かれた。今までの努力は何だったんだろう。そして、こんな話を誰が信じるだろうか?

9時を少し過ぎた東陽町の駅で会社に電話した。上司との乾いた会話が場を白けさせた。


◇◆◇ (3) 「拾う神あり」


仕事で長野の大学に出張したときの話である。

懇意にしている大学の先生からある部品を貸して欲しいと言う依頼があった。説明がてら資料を持っていくことになった。部品、説明書、会社案内も同封した。ほとんど完璧な準備ができた。黄色の目立つ手下げ袋にいれて会社を出た。

長野へは東京から新幹線が開通してから近くなった。1時間半程度で行ける。始めて乗る長野新幹線は楽しみだ。そんなことを考えながら資料を確認して手下げ袋を網棚に置いた。おっと、もう日本橋だ。そのまま降りた。まだ少し時間があるので丸善あたりを冷やかそうと考えていた。

改札を出て、丸善の看板に向かって歩いていたが、何かふわふわした違和感があった。鞄はあるし、定期入れも財布もある。左手を見た。そこで重大なことに気づいた。手下げ袋がない。冷たい汗がす〜と頬を伝わるのを感じた。大変なことになった。今日、出張で使う大事なものがすべて入った手下げ袋を電車の網棚に置き忘れたのだ。

とりあえず、駅員をつかまえて荷物を忘れたと伝えた。駅員は階段の途中の忘れ物取り扱い所に案内してくれた。係りの人は、手馴れた様子でてきぱきと、電車の行き先、車両、時間、落としものの外観などを確認していく。小さい電話番号が書いてあるメモを渡しながら30分くらいしたらここに確認の電話を入れてくださいと言った。長野行きの新幹線の時間が迫っていたので、そのまま東京駅まで向かった。ちょうど30分を経過したあと、電話を入れたが見つからなかったという返事だった。

最後に、営団地下鉄の忘れ物は、上野の忘れ物センターに集まるので明日電話してみてくれと教えてくれた。

翌日、9時半まで待って上野の忘れ物センターに電話してみた。中年の女性の人の声だった。電話の保留音が妙に長く感じた。そのような荷物は届いていないという返事だった。東西線はJRと連結しているので、三鷹の忘れ物センターに届いているかもしれないということでそこの電話番号を教えてもらった。しかし、三鷹にも届いていなかった。

翌日もう一度上野に電話した。今度は違う人が出た。話をすると、東葉勝田台行きの電車があるので、そこに届けられることがあるので電話してみたらどうかと言われた。随分、遠い場所だ。半ば諦めていたのだが、最後の望みで電話を入れてみた。若い女性の声だった。手短に荷物の特徴を話した。

保留音のあとに、それらしい荷物があるという返事がきた。中身を確認すると封筒に会社の名前がある。封筒は5セットで部品も入っていた。間違いない。僕が月曜日に準備したものだ。12日にとりに行くということを告げて電話をきった。見つかったことも嬉しかったが、それを届けてくれた人がいたことが嬉しかった。落とす神あれば拾う神あり、日本もまだ捨てたものじゃない。

今、東西線の中だ。もうすぐ東葉勝田台駅だ。僕の落とした荷物ははたしてどんな姿をしているだろうか。4日間、どんな経路でこんな遠くに来たのか。そんなことを思いながら電車の時間を過ごした。

18時35分、東葉勝田台駅、到着。電話で言われたとおり、一番前の階段を上ると目の前に落としものセンターと書かれたドアがあった。駅員にその旨を話し、名前を言うと、すぐ中に通してくれた。その黄色い手下げ袋は机の上に、無造作に置いてあった。住所、氏名、電話番号を書き認印を押すと、それはあっさり自分の手に戻った。

周りが少しシワクチャになっていたが、中身はまったく落としたままの状態だった。長い旅を終えた紙袋にご苦労さんと言いたかった。良かった。本当に良かった。


◇◆◇ (4) 「席取り名人」


遠くから都心に通っていると、朝の通勤電車で座れるかどうかは大きな問題である。同じ場所で立ちっぱなしと言うのはこたえる。そのため、乗り換え駅では空き座席をめぐって壮絶なバトルが繰り広げられる。

私は、このような競争を勝ち抜いて9割を越す高い確率で、ほとんど毎日座っている。それは、長年の研究の成果と技術の鍛錬の賜物である。

何年か前に、横浜駅で極端に空いてしまう車両があることが偶然にわかった。ちょうど、乗り換え用の階段に近い車両だった。その座席には、いつも乗りかえで降りる人がいて、その前に並べれば必ず横浜で座れる。ただし、そのポジションを取るまでが難しい。この事に気が付いているのは私だけでないからだ。

一度、席争いの熾烈な戦いをして険悪なムードになったことがあった。それ以来、その人のことを「席取り名人」と呼んで近づかないようにしていた。

ある時、親戚の結婚式に出たとき、ばったりとその「席取り名人」に会ってしまった。悪いことに丸テーブルの隣の席になった

お互いに、軽い会釈をしただけで言葉は交わさなかったが、気まずい雰囲気で披露宴を過ごすことになった。

代をさかのぼれば、世の中みんな親戚ということを実感し、この事件があってから、席争いには気をつけるようになった。

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