スキップしてメイン コンテンツに移動

沈黙の春

日曜日、晩飯を食たべたあと、ホロ酔い気分で耳掃除をしていた。弾力のある竹の耳かきで刺激していると大変気持が良い。まさに至福の一時である。

耳をホジホジしながら話に夢中になっていると、急に、右の耳にが〜んという衝撃が走った。始めは、何が起きたか分からなかった。

しばらくすると、キ〜ンという音が聞こえて止まなくなった。壊れたテレビの裏側で発する、あの嫌な音だった。耳の奥がずきんと痛い。

「おとうさん、だっこ」

耳かきを持った右腕に子供が飛びついてきたのだ。

小さな竹のへらが、絨毯の上に飛んでいた。

指で触ってみたが出血はしていなかった。鼻をつまんで息を込めてみると、右の耳からかすかに空気がもれていた。鼓膜が破れたのかもしれないと思った。

耳鳴りは止まらず、水の中にもぐっているような感じになった。

顔の右半分が麻酔を打たれたようにはれぼったい。

試しに色々な音を聞いてみたが、高い音が聞きとりにくかった。自分の声もこもって聞こえて、まるで体の中から聞こえているようだ。

テレビでクラシックのコンサートをやっていた。バイオリンなどの音程の高い繊細な音が聞き取りにくく、ビオラや打楽器などの低音は比較的聞きやすいことがわかった。

風呂に入ってみても耳の感覚は戻らなかった。みんなが寝たあとに静かな部屋で日記を書いたが、鉛筆が紙にこすれて、カリカリと出すような微妙な音が全く聞こえなかった。

寝るときに、このまま、耳が聞こえなくなってしまうのだろうかと、まどろんでいるとエジソンのほおづえをついた写真が浮かんできた。子供の頃、新聞売りの途中に駅員に耳を持って引っぱられてから耳が聞こえなくなったことや、底板にかじりついて歯から伝わる振動音を聞きながら、レコードプレーヤを発明したというような話だった。

世の中には、耳の聞こえない人たちが沢山いる。健常者には決して理解できない、それぞれの世界観があることが自分の経験から少し分かったような気がした。

そんなことを考えているうちに、知らぬ間に深い眠りに入っていた。

翌朝は、耳が痛むということは無かったが、依然として右耳の感覚は麻痺したままだった。病院に行く事にした。


薬局に聞くと、海の近くの耳鼻科専門の個人医院を紹介された。ビル名から察すると、医者の持ちビルらしく、1階にはコンビニが入っており、2階が診療室になっていた。階段の踊り場には高そうな油絵や彫刻が置いてあった。中はきれいでかなり混んでいた。初診と告げると簡単な問診票を渡された。

年配の先生が、マスクをして頭に小さい凹面鏡をつけて診察をしていた。その豆電球が切れていたとかで看護婦をきつく叱りつけていた。もう一人手伝いをしている男の人がいて若先生と呼ばれていた。

椅子に座ると、問診票を見てすぐに耳に小さいジョウロのような器具をさし入れて覗きこんだ。ちょっと見て急性の中耳炎だと言った。こちらのしゃべる間を与えないくらい忙しく仕事をこなしていた。鼓膜は破れていなく、鼓膜の付け根と鼓膜の一部が赤く腫れているということであった。中耳炎というと耳に水が入って炎症を起こすものと思っていたが、先生がそう言うのだからそうなのだろうと思った。

先生は、機械仕掛けの操り人形のように無表情で薬をたらしたガーゼを耳に入れて、赤外線を3分間耳にあてるという治療を行った。右耳のこもったような感じは少しも良くならなかった。2種類の飲み薬と点耳剤がでた。

次の日、朝一番で病院に行った。椅子に座ると、先生は、開口一番、姿勢を正しなさいと言った。姿勢が悪いと良い仕事ができないというような事を言った。学校の先生が生徒を叱るような言い方だった。今日は機嫌が悪いらしい。

昨日と同じように小さなジョウロで耳を覗いて、半分くらい腫れが引いていると言った。しかし、依然として、右耳はボーンとした状態だった。その日の夜、女房に点耳剤を入れてもらったあとに、綿棒で耳をぬぐってみた。血の固まりのようなものがついていた。ジーという虫の鳴くような音だけでなく、時々、耳の奥でガサッという音がした。

一日様子を見て次の日、また、診察を受けた。まだ聞こえないというと、耳の断面図の絵を見せて、耳の仕組みを説明しだした。そして、鼻につながっている鼓膜の内側の管が炎症を起していると言い始めた。

素人判断でも、これはおかしいのではないかと思った。鼓膜が破れていないというのに、鼓膜の内側が傷むことがあるのだろうか。看護婦さんに押さえつけられて鼻から細いブラシのような物を刺し込まれてゴシゴシやられた。まるで、煙突掃除のようだった。その治療の後、逆に聞こえにくくなったように感じた。この医者にかかっていて良いのだろうかと思えてきた。


同僚に話をすると、医者を変えたほうが良いのではないかと言われた。前に行ったことがある会社の近くの耳鼻科に行ってみた。

その病院の外観は3年前と全く変わっていなかった。ドアにかかっている看板は壊れていた。ガムテープで補修されたソファーもそのままだった。人気のいない待合室で順番を待っていると、聞き覚えのある先生の声が聞こえてきた。

しんとした待合室にいると、聞く気はないのだが、悪い耳にも声が飛び込んできた。どうやらカード会社からのようで、預金が足りなくて引き落とせないという電話らしい。医者なのにそんなに金に困っているのだろうかと心配になった。

診察室に入ると、私の顔を覚えていたようで、どうしたんだと馴れなれしく聞いてきた。日曜日に起こったことを伝えると、立花隆に似ている先生の顔がみるみる険しくなった。何が刺さったんだと言うので耳かきだと答えるともっと厳しい顔になって、真剣に耳の中を覗きこんだ。

鼓膜がぐしゃぐしゃに破れていると言った。頭を横にされて薬を耳に差された。直るのでしょうかと聞くと、先生はきっぱりと直ると言った。その後に、時間はかかると、ぼそっと言った。しかし、この診断でようやく納得できた。早くここにくればよかったと思った。

鼓膜に穴が空いていると言われてから、2週間くらい通ったが、まだ、聞こえるようにならなかった。先生に話をすると今後の治療方針について教えてくれた。

聞こえない原因は二つ考えられる。鼓膜が破れたために聞こえないのか、内耳の聴覚神経が損傷を受たために聞こえないのかだ。原因を調べるには、鼓膜の穴にパッチという小さな紙を貼って、それでも聞こえない場合は、神経がやられていると判断する。鼓膜の穴は、放っておいても小さくなるが、まれに、穴が残ることもある。その時は、耳の裏の皮を剥がして鼓膜に貼るという手術も必要になる。

こんな内容だった。結論は鼓膜の再生を早めるためには、穴の空いた傷口に硝酸銀水溶液を塗って様子を見るということだった。硝酸銀水溶液は、理科の実験で銀を抽出するのに使った覚えがある。今日は、その治療をやってくれた。この病院には検査の設備がないという理由で大きい病院での精密検査をした方が良いとも薦められた。


次の日、会社を休んで近くの大学病院へ言った。この病院は子供の出産とかで何度も来ていたが、自分でかかるのは始めてだった。大病院だけあって、システム化が進んでいた。総合受付で登録を済ませると、書類が電算係りにまわって、磁気カードができて、次回からは、このカードを通すだけで事が済むようになっていた。

耳鼻咽喉科は3階だった、待っていると、マスクをした看護婦さんに耳の検査をするのでこっちに入るように言われた。3畳くらいの窓のない狭い部屋に通された。入ると部屋を密閉するためにドアをきつくしめられた。看護婦さんとこんな狭い部屋に2人きりになると、ちょっとドキドキした。

ドアに向かって座らされて、ヘッドホーンをつけられた。信号音がしたら、このボタンを押してくださいと言った。次に水の流れるような音を聞かされた。この音がなってもボタンを押さないでくださいということだった。どうやらその音はホワイトノイズのようだった。ピーとかポーとかいう音程と音量を変えた連続音が何度もした。両耳を別々に測定して聴力検査は終わった。

診察の番が来た。この先生にも今までの経緯を話した。先生は、看護婦さんに耳の中を見るファイバースコープのようなものを用意させて耳の中に入れた。小さなディスプレイに鼓膜が大きく写し出されていた。両耳の写真をとり両方の耳の写真を置いて説明してくれた。

正常な左耳と比較すると右耳には、確かに大きな穴が空いていた。周りに血の固まりのようなものも見えた。それから、先ほどの聴力検査の結果のグラフを取りだした。横軸が周波数、縦軸が聞こえの大きさを表していた。左耳が青色、右耳が赤色の折れ線になっていた。さっきの検査は、耳の周波数特性を計っていたことがわかった。

赤い線をみると確かに周波数の高い部分が聞こえにくくなっている。グラフの中ほどに印がしてあり、この部分に神経をやられている兆候がでていると言った。誤差の可能性もあるので、完全に鼓膜がふさがってからでないと本当のことはわからないと言った。

神経をやられていると治療の術がないというような悲観的なことも言った。この先生も、硝酸銀水溶液を傷口に塗ってくれた。来週の水曜日にもう一度来るように言われた。

それからしばらくこの病院に通った。2ヶ月後に耳の写真を撮ったが、鼓膜はきれいに塞がっていた。その後に聴力検査を行ったが、高い音が少し聞こえにくいという結果が出た。耳鳴りも少し残っていた。先生は、渋い顔をして、これ以上は直らないと言った。治療は打ち切りになった。鼓膜が破れた時に、その奥の耳小骨という器官が押されて元に戻らなくなったためだという説明をしてくれた。

今でも、耳の中で小さな虫が鳴くような音がずっと聞こえている。この音を聞いていると、自分がここに生きているという自覚からか、前よりも物事を深く考えるようになったように感じる。

コメント

このブログの人気の投稿

▶上野の金色のアヒルの謎

昼休み、上野を歩いていましたら、京成上野駅の近くにある金色のアヒルの像が目に止まりました。そこには、川柳の原点「誹風柳多留発祥の地」と書いてありました。平成27年8月に柳多留250年実行委員会と台東区教育委員会の人たちが建てたものらしいのです。樽には「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」という川柳が彫られていました。 Googleで調べましたら 誹風柳多留(はいふうやなぎたる) は、1765(明和2)年から1840(天保11)年まで毎年刊行されていた川柳の句集だそうです。 このアヒルの句は「木綿」と号した誹風柳多留の編者の 呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし) の作ということでした。呉陵軒可有という奇妙な名前は「御了見可有」という慣用句をもじった名前で「堪忍して下さい」という意味があるそうです。句会で、いつも賞品をさらってしまう人で「な~んだ、またあんたかね」という軽い羨望と嫉妬の声に、「ご了見、ご了見」と答えていたところから、この名前がついたと言われます。 誹風柳多留と樽をかけて、その上に金のアヒルを置いたものらしいです。樽の謎は解けましたが、問題は、誹風柳多留の中の数ある川柳の中からアヒルの句が何で選ばれたのかということです。 川柳 は、俳句と同じ五七五ですが、俳句には季語や切れ字の約束がありますが、川柳にはそういう規律がなく、かなり自由です。俳句が自然や風景を詠うことが多いのに比べて、 川柳は題材の制約がなく 、人の暮らしや出来事、人情までも扱われます。 そのため、政治批判、博打、好色など風紀を乱すとされた句も詠まれて、お上から忠告された時代もあったそうです。その後、風流、ワビサビを追求する俳句とは違った路線を歩むことになります。会社員の悲哀を詠ったサラリーマン川柳などはその好例でしょう。 「いい家内 10年経ったら おっ家内」( サラリーマン川柳 傑作選より ) そこで、「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」の句です。鷹のように大空高く飛ぶことができる鳥を俳句だとすると、川柳はアヒル。アヒルだって羽を持っているのだから、言い訳ほどだけど、少しは飛ぶことはできるのだよ、という斜に構えた皮肉を込めた意味だと思います。 記念碑の横の石碑には「孝行を したい時分に 親はなし」の句が彫ってありました。ずばりと真実を突いて、うまいこと言うなと思いました。アヒルにはアヒ

▶吉田兼好は、金沢八景に住んでいた!

 徒然草を最初に読んだのは、横須賀高校の古文の授業でした。最初に読んだのは、第四十一段の「加茂の競べ馬」だったと思います。 木に登って居眠りしながら落ちそうになって見物しているお坊さんをバカにする人を叱るという話だったと思います。 まったくチンプンカンプンでした。 人はいつ死ぬかもしれないのだから、ここで見物している貴方たちも、あのお坊さんと同じなんだよ、と人生の無常を諭す話だったんですね。こんなこと、十五、六の高校生に分かるはずがありません。 吉田兼好は、京都の有名な神社の神官を世襲する名家に生まれ、若い頃は宮仕えをしていたのですが、煩雑な人間関係に嫌気がさして三十歳くらいで出家したと言われています。  この兼好が、横須賀にも近い金沢八景の近くに住んでいたということは、前から聞いていたのですが眉唾ものだと思っていました。しかし、色々と調べてみると、どうやら本当らしいのです。 【 状況証拠1】 徒然草 第三十四段 甲香 ( かひこう ) は、ほら貝のやうなるが、小さくて、口のほどの細長にさし 出  でたる貝の 蓋  なり。   武蔵国金沢 ( かねさわ ) といふ浦にありしを、所の者は、「へなだりと申し 侍  る」とぞ言ひし。   「武蔵国金沢 ( かねさわ ) といふ浦」というのは、たぶん、今の六浦のあたりだと思います。そこに法螺貝に似た貝の蓋が転がっていて、地元の人は、「へなだり」と言うんだよ、という話です。 上行寺の説明によりますと、兼好の旧居跡が上行寺の裏山の一画にあったと伝えられています。 今は埋め立てられていますが、上行寺から 六浦は当時は、目の前でした。ここで兼好が 法螺貝に似た貝の蓋を見た可能性は大です。 【 状況証拠2】 徒然草 第百十九段 鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。  かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。  兼好が住んでいた上行寺から鎌倉までは、朝比奈を越えれば歩いて1時間チョットです。兼好が鎌倉に行って、年寄りの話しを聞いていたとしても不思議で

東日本大震災から3ヶ月(1)

3月11日、昼休みの散歩を終えて4階のオフィスで仕事を始めた矢先に、それは来ました。ドンと縦揺れが来て、横に変わりました。倒れかけた独楽の軸がぶれるような揺れに変わりました。逃げるとか身の安全を守るとかを考える余裕は無く、ただ自分の体を支えて揺れが治まるのを待つのが精一杯でした。天井が抜けたら、これで終わるという恐怖感がありました。 2番目の揺れが来たときには、外にいました。電線がゆっさゆっさと大きく波打っていました。携帯は全くつながらず、部屋にも戻れず、ただ地面に足をつけているという安心感を得るために集まっていました。オフィスに戻ると、300キロもあるプリンタが1メートルも動いていました。書籍棚からは本が飛び出して散乱していました。テレビは、交通機関が止まっていると言うニュースを繰り返し流していました。 4時頃、帰宅できる人は帰って良いと言う社内放送がありました。歩いて帰るもの、会社に泊まる準備をすすめるもの、バスなどの代替交通機関を利用するもの、それぞれの考えで行動していました。食料を求めて、外に出ましたがコンビニには行列ができており、すでにカップラーメンなどは、全て売り切れていました。仕方なく、行きつけの蕎麦屋でカツ丼を食べました。 その夜は、Twitterで誘われて茅場町の水産会社の子会社に勤めている友人のオフィスで一晩過ごしました。サバの味噌煮やシャケ缶をつまみに遅くまで酒を飲んでいました。翌朝、テレビには、トラックをオモチャの自動車のように軽々と運んで行く津波の映像が映し出されていました。京急が動き出すのを待って自宅に昼前に戻りました。