スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

3月, 2007の投稿を表示しています

モンブランとパソコン

テレビのジパングという昼の番組で、万年筆の特集をやっていた。 作家の中には、モンブランの愛用者は多いらしい。 ペン先には、4810という番号が書いてあるが、 山のモンブランの標高の数字ということを聞いた。 作家がモンブランを使う理由は、機能性にあるらしい。 確かに、インクが詰まって出なくなることは少ない。 書き味もさることながら、使いたい時に、いつでもすぐに使えるというのが 万年筆に与えられた大きな使命だ。 それに比べて、パソコンと言うのは、筆記具としては失格である。 何かを思いついても、立ち上がるまで、数分かかる。 その頃には、良いアイデアはどこかに吹き飛んでしまうだろう。 色々な機能はいらないが、電源を入れるとすぐに使えるパソコンが出て欲しい。 情報家電と言うものは、そんなものになるのではないかと思う。

散歩で出会った老人

会社の近くに潮風の散歩道という運河沿いの小道がある。 天気の良い昼休みには、ぶらぶらと歩いている。 少し前は、コブシの白い花がきれいだった。 今は、桜が見頃だ。 避難階段に、老人が杖を放り出して、ひなたぼっこをしていた。 近くを通りかかると、独り言のように話しかけてきた。 「私は、ずいぶん年を取ってしまった。歩くだけで、こんなに疲れるとは、情けないものだよ」 年齢を聞いたら八十九歳ということだった。 「この辺は、昔は全部海だったんだよ。戦後埋め立てられたんだ」 そうなんですか、と相槌を打つと老人は話しだした。 「戦争の時、空襲でみんなやられたんだ。ここまで逃げてきて、海に飛びこんだものだけが助かったんだ」 「大変なことが、あったんですね」 「運良く、うちの家族は、全員、助かった。そのあとに、東陽1丁目に移り住んだんだ」 老人は、明らかに話し相手を捜していた。 「東陽1丁目は、昔は遊郭だったんだよ」 「そうなんですか」 確かに木場のあたりに、そんな風情を残した所がある。 「遊郭と赤線の違いを知っているかね」 「えっ、違うんですか?」 「遊郭は、国の管轄だったんだよ。だから、花魁が逃げると警察が日本中探し回ったものなんだ」 「赤線は違うんですか?」 「マッカーサーが遊郭をつぶした後に戦後出来た赤線では、そんなことはなかったんだよ」 老人の話は、続いた。 話をしている時の顔を見ると、最初にであったときに比べて生き生きしていた。 とても九十歳に近い老人には思えなくなった。 時計を見ると午後が始まる1時にあと5分と迫っていた。 もっと聞いていたかったが、そろそろデスクに戻らねばならない。 「今日は、時間になりましたので、失礼します」 「残念だね。私は、東陽1丁目でクリーニング屋をやっているんだ。隣は、亀の湯という銭湯だ。 息子が同じ町内で寿司屋をやっているから、良かったら寄ってくれ」 軽く会釈をして分れた。 昔の人は、この老人のように、初対面の人とも気軽に会話をしていたのだろうか。 明治か大正にタイムスリップしたような昼休みだった。

ホワイトプラン

番号ポータビリティが始まって、かなり経つが、私も、その恩恵にあずかることになった。 ドコモの携帯を長年使ってきたが、最近のことが分からないので、近くの携帯ショップに聞いてみた。 今回の乗り換えの目的は、女房も携帯を持ちたい、月額の費用を減らしたい、というものだった。 どこでも、ソフトバンクのホワイトプランをすすめられた。どうやら、通話とメールのみだと、このプラン(980円で時間指定の通話、メールが使い放題)がいちばん安いらしい。 ついに、FOMAから、ソフトバンクに乗り換えることになった。 結果は、大満足。1台のドコモからソフトバンク2台の使用料を引いてもおつりがくる。しかも、使い勝手は断然向上している。 女房は、デカ文字対応のNEC製、私は、薄型のSAMSUNG製の機種を選んだ。 使っていて感じたことは、これは、すでに小さなパソコンだと言うことだ。 アップルが携帯電話に参入したのがわかった。何十年か前に、パソコンに出会って夢中になった感じが蘇ってきた。 アップルの携帯が日本でも売られたら、多分、買うだろう。それが、ホワイトプラン対応になればもっと良い。

林住期

3月いっぱいで、昔からの同僚が50歳の節目で会社を去ることになった。 子どもたちが独立したこと、母親の介護が必要になったことが 主な理由らしい。次の勤め先は、まだ、決めていないのだという。 50歳を過ぎて、何をやろうかという話になった時に、 五木寛之が書いた「林住期」と言う本の話になった。 インドのヒンズー教の考え方では、人生を25年ずつに区切って、 最初の25年が学生期、次の25年が家住期、 そして、50を過ぎてからの25年を林住期、 残りの百歳までの25年を 遊行期と呼んでいるのだそうだ。 学生期は、勉強して知識や技術を身につける時期、 家住期は、仕事をして結婚し子どもを育て社会のために働く時期、 林住期は、ボランティアなどをして社会に還元する時期、そして遊行期こそが、自分のために好きなことができる 人生で最も輝かしい時期だというのである。 この話をしたあとに、同僚は、とにかく、これから 好きなことを探してみたいと言って去って行った。 このインドの人生100年説から考えると、 50というのは、単なる折り返し地点である。まだまだ楽しいことがたくさんある。林住期を経て、遊行期という人生の収穫時期に備える期間だと考えると、これからの人生が楽しくなってきた。

桜の開花

春の一大イベントが迫ってきた。 これなくしては、日本の春は始まらない。 それに気象庁がとんだミソをつけてしまった。 開花の時期を間違えた、という。 間違えた事は、どうってことはない。 その理由が問題だ。 深々と頭を下げたが、その後がいけない。 コンピュータのせいにした。 大工が家の出来を問われて、 「かんな」や「のこぎり」が悪かったと言うだろうか。 潔く、私の力量が足りなくて間違えました、 と言ってもらいたかった。 気象庁が、何と言おうと、時がくれば 桜は、花を咲かせ、潔く散っていくだろう。

彼岸

お墓参りに行ったら、随分、賑わっていた。 暑さ寒さも彼岸までというが、春の気配を感じた。 啓蟄(けいちつ)という言葉がある。 虫が這い出すという意味だが、 これも、春の訪れを言う言葉だ。 ふと、足元を見ると、オオイヌノフグリの小さな花が咲いていた。 冬があるからこそ、春が愛おしい。 人の身勝手で温暖化が進んでいるという。 一年中、適温になったら過ごしやすいだろうが、 寒く厳しい冬が無くなったら、春の喜びもないだろう。 冬は寒い方が良い。 夏は暑い方が良い。

漱石の猫

漱石の猫は、文庫本でも500ページを超える長編である。書き始めた時は、短編のつもりだったらしい。 「我が輩は猫である。・・・」で始まる冒頭部分は名調子で読みやすいが途中で挫折していて最後まで読めなかった。 しかし、読み返してみると、中盤以降が実に面白い。漱石が何を考えて、何をやっていたのかが良くわかる。これは、日記のようなものだと思った。 小説のネタに行き詰まって、日常の生活を猫に語らせると言うアイデアが出た時に、この小説はほとんど出来上がっていたのではないかと思う。 角川文庫版を読んでいるが、僅かに400円で、これほどの娯楽が手に入ると思うと嬉しくなった。

カエルの話

庭に小さな水たまりがある。 水たまりと言っても、プラスチックの壊れた漬物入れに 雨水が自然に溜まったものだ。 この季節になると、その小さな水たまりに、 カエルが卵を産みに山から下りてくる。 暖冬の影響もあって、今年は、いつもより早かった。 透明なところてんを太くしたようなものがとぐろを巻いている。 その中におびただしい数の黒い卵が浮いている。 次の日、容器の回りに、大量の卵が外に放り出されているのを見つけた。 誰がこんないたずらをしたのだろう、と思って淵に目を移すと、 親らしいカエルが後ろ足で、卵を懸命に外に押しだしているところだった。 この不可解なカエルの行動を子どもたちは不思議がった。 何年か前に、小さな容器が真っ黒になるくらいのおたまじゃくしが湧いたことがあった。 しかし、容器が小さすぎたのか、カエルになる前に、全滅してしまった。 しばらくして、静かになった水たまりに行ってみた。 放り出された卵は、無惨に干からびていた。 少しは、卵が残っているかと、水の中の落ち葉をめくると、 痩せたカエルが頭をもたげた。 そして、次の瞬間、意外なものを見た。 カエルは、ひと房の卵を抱いていた。 その時、カエルの不可解な行為の意味が理解できた。 何年か前に、ここで起った事件を知っていて、間引きをしたとしか思えなかった。 カエルにそんな記憶力があるのだろうか、 子を思う親の心があるのだろうか、 そんな僕の思いには全く無頓着に、カエルは水の中の落ち葉の下に姿を隠して 静かに卵を守るのであった。

悲しみの遺伝

従兄弟のXさんが急に亡くなった。 私より、一つ上の若い死だった。 従兄弟の中で、いちばん運動も勉強もできたが 病気には勝てなかった。 辛い葬儀になった。 今年、大学を卒業する、ひとり娘のお嬢さんが 別れを惜しんで泣き崩れる姿は涙を誘った。 その姿を、何十年も前に見たことを思い出した。 仲の良かった従兄弟の一人が30年以上前に、 20歳を前にして亡くなった。 その時、十代のXさんは同じように泣き崩れたのであった。 Xさんと娘さんの姿が瞼の中でダブって見えた。

30年待ってくれた本

金沢八景の駅前に学生時代から通っている本屋さんがある。 親父さんとは顔見知りだ。 いつものように、良い本がないか物色していると、 本棚の奥の方に黄ばんだ表紙の古い本を見つけた。 「コンピューターへの道」という興味をそそる題がついている。 レジに持っていくと親父さんは、古本屋じゃないのに 100円でゆずってくれた。 何十年か前に、注文を受けた本で、取りにこなかったので そのままになっていた本だということだった。 昭和54年の発行だ。30年近くも、この本棚に置かれていたのかと思うと それだけでもワクワクする。 読んでみると、昭和20年〜30年代にパラメトロンという 日本で最初に作られたコンピュータの話だった。 真空管で作られたENIACよりも信頼性は高かったらしい。 トランジスタやICの出現で消えてしまった技術だが、 日本独自のこんなコンピュータがあったと思うと誇らしくなった。 100円の古い本でも、大変楽しむ事ができた。この本は、 30年も本棚で、僕に買われるのを待っていたのだろうか。 インターネットの古本には5000円という値段がついていた。 ずいぶん、得をしたな、と思った。