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散歩で出会った老人

会社の近くに潮風の散歩道という運河沿いの小道がある。
天気の良い昼休みには、ぶらぶらと歩いている。

少し前は、コブシの白い花がきれいだった。
今は、桜が見頃だ。

避難階段に、老人が杖を放り出して、ひなたぼっこをしていた。
近くを通りかかると、独り言のように話しかけてきた。

「私は、ずいぶん年を取ってしまった。歩くだけで、こんなに疲れるとは、情けないものだよ」

年齢を聞いたら八十九歳ということだった。

「この辺は、昔は全部海だったんだよ。戦後埋め立てられたんだ」
そうなんですか、と相槌を打つと老人は話しだした。

「戦争の時、空襲でみんなやられたんだ。ここまで逃げてきて、海に飛びこんだものだけが助かったんだ」
「大変なことが、あったんですね」

「運良く、うちの家族は、全員、助かった。そのあとに、東陽1丁目に移り住んだんだ」
老人は、明らかに話し相手を捜していた。

「東陽1丁目は、昔は遊郭だったんだよ」
「そうなんですか」
確かに木場のあたりに、そんな風情を残した所がある。

「遊郭と赤線の違いを知っているかね」
「えっ、違うんですか?」

「遊郭は、国の管轄だったんだよ。だから、花魁が逃げると警察が日本中探し回ったものなんだ」
「赤線は違うんですか?」

「マッカーサーが遊郭をつぶした後に戦後出来た赤線では、そんなことはなかったんだよ」

老人の話は、続いた。
話をしている時の顔を見ると、最初にであったときに比べて生き生きしていた。
とても九十歳に近い老人には思えなくなった。

時計を見ると午後が始まる1時にあと5分と迫っていた。
もっと聞いていたかったが、そろそろデスクに戻らねばならない。

「今日は、時間になりましたので、失礼します」
「残念だね。私は、東陽1丁目でクリーニング屋をやっているんだ。隣は、亀の湯という銭湯だ。 息子が同じ町内で寿司屋をやっているから、良かったら寄ってくれ」

軽く会釈をして分れた。
昔の人は、この老人のように、初対面の人とも気軽に会話をしていたのだろうか。
明治か大正にタイムスリップしたような昼休みだった。

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