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カエルの話

庭に小さな水たまりがある。
水たまりと言っても、プラスチックの壊れた漬物入れに
雨水が自然に溜まったものだ。

この季節になると、その小さな水たまりに、
カエルが卵を産みに山から下りてくる。
暖冬の影響もあって、今年は、いつもより早かった。
透明なところてんを太くしたようなものがとぐろを巻いている。
その中におびただしい数の黒い卵が浮いている。

次の日、容器の回りに、大量の卵が外に放り出されているのを見つけた。
誰がこんないたずらをしたのだろう、と思って淵に目を移すと、
親らしいカエルが後ろ足で、卵を懸命に外に押しだしているところだった。
この不可解なカエルの行動を子どもたちは不思議がった。

何年か前に、小さな容器が真っ黒になるくらいのおたまじゃくしが湧いたことがあった。
しかし、容器が小さすぎたのか、カエルになる前に、全滅してしまった。

しばらくして、静かになった水たまりに行ってみた。
放り出された卵は、無惨に干からびていた。

少しは、卵が残っているかと、水の中の落ち葉をめくると、
痩せたカエルが頭をもたげた。
そして、次の瞬間、意外なものを見た。

カエルは、ひと房の卵を抱いていた。
その時、カエルの不可解な行為の意味が理解できた。
何年か前に、ここで起った事件を知っていて、間引きをしたとしか思えなかった。

カエルにそんな記憶力があるのだろうか、
子を思う親の心があるのだろうか、

そんな僕の思いには全く無頓着に、カエルは水の中の落ち葉の下に姿を隠して
静かに卵を守るのであった。

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