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1月, 2009の投稿を表示しています

日々の生活で心がけたいこと

会社には、社是がある。家には家訓がある。私も日々の生活で心がけたいことをまとめてみた。 1.考えても仕方がないことは考えない 2.どんなことでも良いように考える 3.小さなことからとにかく始めてみる 4.自慢話や他人の悪口を決して言わない 5.嘘をつかない知ったかぶりをしない 6.他人をうらやましいと思わない 7.つらいことに遭ったら勉強だと考える 8.誰にでもあいさつをきちんとする 9.あれこれ迷ったら難しい方を先にやる 10.家に上がるときはきちんと靴を揃える 11.自分から率先して掃除をやる 12.見た目や肩書きで人を判断しない 13.ものをしまう場所を決めておく 14.いらない書類はすぐに始末する 15.手紙やメールの返事はすぐに出す 16.思いついたらすぐにメモをする 17.歩いて行ける所へは歩いていく 18.いつでも字をていねいに書く

超音波洗浄機とモンブラン

父の友だちから手紙が来た。父は亡くなっているので代わりに返事を書かねばならない。差し出し人はかなり達筆だ。大正生まれの父の友人ということはかなり高齢に違いない。ワープロで返事を出すわけには行かない雰囲気だ。熟慮の結果、万年筆で書くことにした。 自慢ではないが、私はモンブランを持っている。しかも、松本清張が持っていそうな極太のやつだ。婚約指輪のお返しに妻からプレゼントされたものだ。その頃、小説家にあこがれていて、どうしても欲しかった。しばらくは書き味を楽しんでいたが、すぐに飽きてしまって長い間、机の奥にしまいこんだままになっていた。 何年も引き出しに入っていたモンブランはすっかりひからびてしまっていた。インクを入れてみたが、どうも、インクの色がうすい。インク壷を見ると底に黒いものが沈殿していた。色素が分離して溜まったものらしい。近くの文房具店にパイロットのインクを買いに走った。 パソコンで文章をつくって、それを万年筆で清書した。昔は、ワープロが清書機に使われていたが、その逆をやっているわけだ。無駄なことをやっているがしかたがない。最初は調子良く書けていたが、モンブランがすぐにかすれてしまうのだ。一行書くとインクを付けなければならない。小説家がモンブランを愛用しているのは、かすれずにいつまでも書きつづけることができるからだと聞いたことがある。どうした、モンブラン。 モンブランと故障をキーにしてネットで調べてみたら、日本のモンブランの支店に持っていったら国内では直らないので、ドイツに送られて修理されて戻ったときに莫大な修理代を請求されたというブログがあった。もう少し調べてみると、万年筆を超音波洗浄機で洗うとインク詰まりが直るという話が出ていた。万年筆の洗浄、1回、500円というサービスもあった。アマゾンで調べると3000円代で超音波洗浄機を売っていた。 早速、夜中に内緒で買うと2日後に届いた。便利な世の中になったものだ。早速モンブランをかけて見た。チーという虫の鳴くような音がして黒い小さなかすがたくさん出た。古いインクビンの底に溜まっていたのと同じもものだ。インクのカスなのだろう。少し、日陰干しにしてからインクを入れて使ってみたが、すこぶる調子が良い。モンブラン復活である。大満足であった。 妻は、あきれ返ったような顔で超音波洗浄機を見て何か言っていた。3000円出したら良

落ち葉掃除

手紙は放っておくとドンドンたまって行く。中には役所からの重要な手紙からDMのようなものまで含まれている。それを整理するのは大変で気が重い。でも、毎日来た手紙をすぐに開封して、いらないものは捨てる、いるものは整理箱に入れる、ということをやっておくと、あまり苦労しないで手紙の整理が出来る。というより、手紙を整理するという気が重い仕事自体がなくなる。 このように、面倒だから、とりあえず保留にしてたまってからやろう、というバッチ処理をやめて、リアルタイムの処理に切り替えることで随分楽になる。落ち葉の掃除も同じで、ためてしまうと大変なことになる。休みの日に少しずつやることにした。2時間くらいはかかるのだが、落ち葉を拾ってきれいになった庭や道を見るのは気持ち良い。それでも、毎週、ビニールのゴミ袋に5〜6個分は捨てることになる。 この仕事を洗濯物を干しながら2階から見ていた妻からクレームが入った。ゴミ袋を使いすぎるというのだ。最初は、けちくさいことは言うなと思ったが、確かに落ち葉掃除だけで毎週こんなに袋を使うのはもったいない。そこで、落ち葉の堆肥を作ったらどうかと考えた。今度は、落ち葉を醗酵させて土に帰すと言うリサイクルに挑戦することになった。

KingSoft Office2007

PTAの役員の推薦委員をやっていた妻が、やり手がいないという理由で自分でPTAの役員になってしまった。これがミイラ取りがミイラになったというのだろう。役員の仕事はパソコンを使うことが多いらしい。年がばれてしまうが妻は昔ワープロ専用機のスクールに通っていたことがあるらしい。しかし、パソコンのことが全く分からない。PTAのパソコンにはワードとエクセルが入っていて、それが使えることが大前提らしい。 そこで私にワードとエクセルの使い方を教えて欲しいという白羽の矢が立った。だが、家のパソコンにはワードもエクセルも入っていない。インターネットで買ったDELLのノートパソコンが7万円なのに5万円もするマイクロソフトのオフィス(以後、MSオフィス)を買うのはナンセンスだからだ。古くからのMacファンゆえマイクロソフトが大嫌いということもあり、今まで、その会社のソフトを自腹で買ったことがないのだ。 仕事ではワードやエクセルを使っているが、家では無料のオープンオフィスなるものを使っていた。機能的にはMSオフィスと同じなのだが、使い勝手が全く違うし動きもぎこちない。今回は、妻にMSオフィスの操作を教えるのが目的なので使い勝手が違うオープンオフィスでは用が足りない。大枚を払ってマイクロソフトの軍門に下ろうかとも思ったが、それもしゃくに触る。 新しいOffice互換ソフトが出ていないかグーグルで調べてみたらKingSoftと言う中国の会社がKingSoft Office2007という紛らわしい名前のソフトを出していた。KingSoftという名前は前から知っていたがオープンオフィスに毛の生えたようなものだろうと思っていた。あまり期待もせずに30日間の無料お試しソフトをダウンロードして使ってみた。 インストールを終えてKingSoft Office2007 Writerというワープロを立ち上げてみた。出てきた画面に驚いた。デザインは洗練されていないが、ボタンやメニューがMSオフィスと同じではないか。簡単な書類を作ってみたが操作性もほとんど同じ。エクセルやパワーポイントもどきのソフトもMSオフィスと同じだった。しかも、オープンオフィスのようなもたつきがなく動きもスムーズだ。 さっそく妻にワードの使い方を教えてみたが戸惑うことはなかった。小学生の娘も学校でワードを使っているらしくすぐに使えるようにな

墓石と太陽

休みの日に雨戸を開けていたら強い光が目に飛びこんできた。一筋の光が私をめがけて向いの山から走っていた。始めは、照光器で照らされているのかと思った。良く見ると山の斜面の墓石に朝日が反射しているだけだった。 この時間と場所に墓石から反射した太陽光が目に入る確率は非常に低い。見ようと思って見れるものではない。宗教者の話の中には強い光で啓示を受けたというものが良く出てくるが、偶然に墓石に反射した朝日と同じようなものを見たのかもしれない。それを悟りに結びつけるところが宗教なのかもしれない。

映画「ウォーリ」

子どもたちにせがまれて何十年ぶりかで映画館に行った。そこは昔の暗くて汚いというイメージからは全くかけはなれたものだった。第一印象は大学の講堂か会社のプレゼンルームといった感じでイスや照明が格段に良くなっていた。話題の映画だったので混んでいると思って立ち見も覚悟していたが最後まで空席が埋まることはなかった。 映画の設定は700年後の未来社会。環境汚染が進んで、地球にはゴキブリ以外の生物が住めなくなっている。人間は宇宙船の中で地球がきれいになるのを待っている。何でもロボットまかせの生活を送った結果、自分の力で歩くこともできなくなってカプセルのようなものに乗って生活している。 その汚れた地球の掃除をしているロボットがウォーリだ。宇宙船から送りこまれた美しい探査ロボットのイヴにウォーリは恋をする。イヴにプレゼントした小さな植物をめぐってロボットと人間のあいだで争奪戦が繰り広げられる。人間が勝利し地球に緑の大地が蘇るというハッピーエンドで終わる。 昔のSF映画やマンガに描かれていた未来はバラ色に輝いていた。自家用飛行機が飛び交い、石油や原子力がエネルギー問題を解決し、コンピュータがテクノロジの象徴だった。欲しいものは何でも手に入り、貧困も戦争もない夢のような世界が未来社会だった。 ウォーリには、そんな輝いた未来の姿はない。未来の都会の高層ビルは廃墟になって町はゴミの山になっている。人間はロボットに自由を奪われて家畜のような生活を送っている。そんな未来が来ないように大きく舵を切って、自分たちの生き方を変えていこうと言うのが作者のメッセージだろうが、子どもたちはどこまで理解してくれただろうか。

PTA

学校のPTAの会長になる人がいないという。そのために推薦委員という人たちが役員を選出するということをやっているらしい。みんなに断られて苦労しているらしい。私が小学生のころは、PTAの会長は名誉職で、なりたくても、なれなかった。 何でやり手がいないんだろうと思って、会則を読んでみると、どうも会の目的がはっきりしない。舵が壊れて行き先が定まらない船の船長を決めているようなものだ。船を修理してから船長を決めるべきではないかと思う。

2009年の厄払い

どんな悪いことが起こっても、新年になれば状況が変わって全てが良くなると思わせるのがお正月のマジックだ。去年は百年に一度の不況と言われていたが、年を越えるだけで経済が好転するとは思えない。でも、それを信じて初詣や厄払いに繰り出していく。どんな時代になっても人間なんて弱いものだ。 お正月気分がようやく抜けた夜の静寂を破るように実家から電話がかかってきた。時間がじかんだったので何があったのかと心配した。聞くと今年の私の人生はお先が真っ暗だと言うのだ。新聞の神社の広告に載っていたのだと言う。神社の営業戦略ということはわかっていたが親孝行と鎌倉見物を兼ねて八幡様に厄払いに行くことにした。 1月11日だったので成人式の着物すがたが多かった。うだつの上がらない人が多いと想像していたが意外に裕福そうな家族連れが多かった。厄払いには賽銭よりお金がかかるので、本当にお金がなくなってしまった人は来ないのかと思った。リピートのお客も多いと考えると、ここのお払いは効くのかもしれないと期待がもてた。申込書には住所、氏名、年齢、生年月日などを書き、お願いしたい項目に丸をつけるようになっている。厄払いのついでに家内安全や交通安全も頼んでおこうかと女房に相談したら、「お願いの数だけお金がかかるのよ」と一喝された。 金額は、5000円、7500円、1万円・・・と自分で選ぶようになっている。買う人が値段を決める商品なんて聞いたことがない。値段によって効きかたが違うわけでもないだろうと思って迷わずに5000円に丸をつける。受付を済ませるまでに30分くらい並ばせられて、そのあとに本殿に上って待合室で名前を呼ばれるのをまた待つことになる。近くに賽銭箱があって、投げ込まれたお金の音がやかましい。こちらは、そんな、はした金じゃないんだ、と変な優越感にひたる。不況の影響もなく正月の神社には金が飛び交っていた。 呼ばれた頃には新書本が1冊読めてしまった。トータルして3時間以上待たされたことになる。本殿には百人を越える欲深い人たちが座っていた。宮司の言われた通りに頭を下げたり上げたりする。会社のおえらいさんたちも、ここでは若い宮司にあごで使われている。代表の人が前へ出てたまぐしを奉納した。どういう基準で代表が選ばれたのか興味があった。 祝詞の最後に全員の名前が呼ばれた。自分の名前が呼ばれると安心してそっと胸をなでおろす

法話を聞きながら考えたこと

法事があった。このような集まりでは年配者が多い。元気な80代がごろごろいる。政治家の世界の年齢構成に少し似ている。50を過ぎた私でも若い部類に入る。ここでは、チャン付けで呼ばれて子ども扱い。長老たちは、いくつになっても若いつもりでいる。 そういう自分も、年を取った自覚はない。時が勝手に過ぎていっただけで自分は何も変わっていないと思っている。 でも、それで良いのではないかと思った。「青春とは人生のある期間ではなく心の持ちかたを言う」で始まるウルマンの青春の詩がある。無理に年のことを考えて老け込むことはないと思う。年を取ったと嘆いても何のプラスにもならない。それより、気持ちだけでも青春を謳歌できればそれで良いようにも思える。 和尚さんの「みんな人は生かされて生きている」という法話を聞きながら考えたことである。

上大岡の車中で聞いた話

暮れも押し詰まった十二月二十九日のことだった。母の病院の帰りに、上大岡から京急に乗った。上大岡からどっと乗り込んだ。人の波に流されるように空いている席に座った。隣には大きな紙袋を持った女性が座っていた。私の方を気づかって紙袋を自分のひざの上に置いたりして席を広げてくれた。 「十分、座れますから良いんですよ。年末になると買い物が増えますからお互い様ですよ」 すると意外な返答が帰ってきた。 「そうじゃないんです。母が老人ホームに入っているんで荷物を届けに行くんです。母は良いんですけど、父が家にいて夜中に大声を出すんです。ぼけてくれればいいんですけど、体は元気で、昼間は頭もしっかりしてるから預かってくれる所がないんです」 初対面の人からずいぶんプライベートな話を聞いてしまった。 「今は、お金さえ出せば何でもやってもらえるけど、人の温かさってものがなくなったような気がしますね。本当は、老人ホームなんてなくても、みんなで面倒を見れたら良いんでしょうが、今は出来ないわよね」 私の母の老人ホームを探しているところなので複雑な心境になった。私の祖父も祖母も九十まで長生きしているが最後まで老人ホームには入らなかった。その時代は家で見るのが当たり前だった。今では、それが当たり前でなくなってしまった。一人でがんばって出来ることではない。「今は出来ないわよね」という言葉にはそんな意味が含まれていると思った。