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川を見て考えたこと

家の近くに侍従川という名の川が流れている。浄瑠璃にも出てくるが照手姫の乳母の侍従が入水した川として知られている。川の中程の所が深くなっている。生活用水を流すために大きな土管があり、そこからの水が川底をえぐったためである。そこにたくさんの鯉がいる。人に馴れていて、人が近づくと水面に集まっ口をぱくぱくさせる。

色がきれいなのや黒くて太ったのやら、いろんな鯉がいる。その中に背骨が曲がった鯉がいることが分かった。よく見ると1匹ではない。背骨が曲がったやつは、何だか元気がなくて、いかにも病気の鯉という感じである。インターネットで調べると、日本中の海や川で捕れる魚の中に同じように背骨が曲がったのがいるらしい。市販されている殆どの洗剤に含まれている界面活性剤という物質が原因らしいということが書いてあった。

界面活性剤は石油から合成されている。原料が安くて製造がしやすいので安く作れるのだろう。同じ値段で売るのなら原料費が安い方が企業は儲かる。企業が利益を追求する経済活動は悪いことではない。しかし、商財として優れている界面活性剤が生き物にとって害があるものであるのなら、それは、本当に悪いことではないのだろうか。経済を辞書で引くと「国を治め人民を救うこと」と書いてある。金を儲けることだけが経済活動ではないはずだ。

事故米や原材料や生産地の虚偽の表示の問題が表面化してから商品の表示は正確になった。透明性がでてきた。今度は、消費者が正しい表示を理解して本当に買っていい商品とそうでない商品を見分ける賢さを身につけるべきだと思う。有毒な洗剤を直接口にするものはいないだろう。しかし、自分たちが買って、自分たちが使って、自分たちが垂れ流した有毒な洗剤が巡りめぐって自分たちの口に入るのかと考えると、なんとかしたいものである。

まずは買わないという選択から始めたい。安さを基準にするのでなく、中身を基準にして消費者が買うようになれば,自然に悪い商品は淘汰されて行くであろう。それが、次の神の見えざる手になってもらいたい。

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