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▶ロシア軍のウクライナ侵攻を非難し、戦争の早期終結を願う決議

 


浄土真宗本願寺派もロシア軍のウクライナ侵攻を非難し、戦争の早期終結を願う声明文を出しています。
The Jodo Shinshu Honganji faction has also accused the Russian army of invading Ukraine and issued a statement hoping for an early end to the war.

我々は、被爆国の市民として、生命を慈しむ仏教徒として、世の安穏を願う念仏者として、この武力侵攻を非難し、自己正当化をくりかえす権力者の愚かさを批判し、歴史をかえりみつつ、この戦争の一刻も早い終結を願う。
As citizens of the A-bombed countries, as Buddhists who care for life, and as Buddhists who wish for the peace of the world, we condemn this armed invasion, criticize the stupidity of those in power who repeat self-justification, and look back on history. I wish the end of this war as soon as possible.

https://www.hongwanji.or.jp/news/cat5/001746.html
(浄土真宗本願寺派 宗会 ホームページ)

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▶上野の金色のアヒルの謎

昼休み、上野を歩いていましたら、京成上野駅の近くにある金色のアヒルの像が目に止まりました。そこには、川柳の原点「誹風柳多留発祥の地」と書いてありました。平成27年8月に柳多留250年実行委員会と台東区教育委員会の人たちが建てたものらしいのです。樽には「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」という川柳が彫られていました。 Googleで調べましたら 誹風柳多留(はいふうやなぎたる) は、1765(明和2)年から1840(天保11)年まで毎年刊行されていた川柳の句集だそうです。 このアヒルの句は「木綿」と号した誹風柳多留の編者の 呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし) の作ということでした。呉陵軒可有という奇妙な名前は「御了見可有」という慣用句をもじった名前で「堪忍して下さい」という意味があるそうです。句会で、いつも賞品をさらってしまう人で「な~んだ、またあんたかね」という軽い羨望と嫉妬の声に、「ご了見、ご了見」と答えていたところから、この名前がついたと言われます。 誹風柳多留と樽をかけて、その上に金のアヒルを置いたものらしいです。樽の謎は解けましたが、問題は、誹風柳多留の中の数ある川柳の中からアヒルの句が何で選ばれたのかということです。 川柳 は、俳句と同じ五七五ですが、俳句には季語や切れ字の約束がありますが、川柳にはそういう規律がなく、かなり自由です。俳句が自然や風景を詠うことが多いのに比べて、 川柳は題材の制約がなく 、人の暮らしや出来事、人情までも扱われます。 そのため、政治批判、博打、好色など風紀を乱すとされた句も詠まれて、お上から忠告された時代もあったそうです。その後、風流、ワビサビを追求する俳句とは違った路線を歩むことになります。会社員の悲哀を詠ったサラリーマン川柳などはその好例でしょう。 「いい家内 10年経ったら おっ家内」( サラリーマン川柳 傑作選より ) そこで、「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」の句です。鷹のように大空高く飛ぶことができる鳥を俳句だとすると、川柳はアヒル。アヒルだって羽を持っているのだから、言い訳ほどだけど、少しは飛ぶことはできるのだよ、という斜に構えた皮肉を込めた意味だと思います。 記念碑の横の石碑には「孝行を したい時分に 親はなし」の句が彫ってありました。ずばりと真実を突いて、うまいこと言うなと思いました。アヒルにはアヒ

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 徒然草を最初に読んだのは、横須賀高校の古文の授業でした。最初に読んだのは、第四十一段の「加茂の競べ馬」だったと思います。 木に登って居眠りしながら落ちそうになって見物しているお坊さんをバカにする人を叱るという話だったと思います。 まったくチンプンカンプンでした。 人はいつ死ぬかもしれないのだから、ここで見物している貴方たちも、あのお坊さんと同じなんだよ、と人生の無常を諭す話だったんですね。こんなこと、十五、六の高校生に分かるはずがありません。 吉田兼好は、京都の有名な神社の神官を世襲する名家に生まれ、若い頃は宮仕えをしていたのですが、煩雑な人間関係に嫌気がさして三十歳くらいで出家したと言われています。  この兼好が、横須賀にも近い金沢八景の近くに住んでいたということは、前から聞いていたのですが眉唾ものだと思っていました。しかし、色々と調べてみると、どうやら本当らしいのです。 【 状況証拠1】 徒然草 第三十四段 甲香 ( かひこう ) は、ほら貝のやうなるが、小さくて、口のほどの細長にさし 出  でたる貝の 蓋  なり。   武蔵国金沢 ( かねさわ ) といふ浦にありしを、所の者は、「へなだりと申し 侍  る」とぞ言ひし。   「武蔵国金沢 ( かねさわ ) といふ浦」というのは、たぶん、今の六浦のあたりだと思います。そこに法螺貝に似た貝の蓋が転がっていて、地元の人は、「へなだり」と言うんだよ、という話です。 上行寺の説明によりますと、兼好の旧居跡が上行寺の裏山の一画にあったと伝えられています。 今は埋め立てられていますが、上行寺から 六浦は当時は、目の前でした。ここで兼好が 法螺貝に似た貝の蓋を見た可能性は大です。 【 状況証拠2】 徒然草 第百十九段 鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。  かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。  兼好が住んでいた上行寺から鎌倉までは、朝比奈を越えれば歩いて1時間チョットです。兼好が鎌倉に行って、年寄りの話しを聞いていたとしても不思議で

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