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▶脱走兵(Le Déserteur)ACT「BORIS VIAN」1990年 沢田研二

この作品は、1950年代のインドシナ戦争中に作詞された反戦歌です。作者は、フランスの作家、詩人であるボリス・ポール・ヴィアン(Boris Paul Vian, 1920年生まれ)です。今から70年も前に作られたものですが、現在の兵士の中にもきっと同じように苦しんで、言い出せずに本意でなく武器を持って戦っている人たちもいると思います。ソ連が1450万人、ドイツが280万人、日本が230万人、世界で5000万〜8000万人の命を奪った言われる第二次世界大戦の教訓はどこに行ってしまったのでしょうか?

This work is an anti-war song written during the Indochina War in the 1950s. The author is Boris Paul Vian (born 1920), a French writer and poet. It was made 70 years ago, but I'm sure some of today's soldiers are suffering in the same way. Where did the lessons of World War II, which are said to have claimed the lives of 14.5 million people in the Soviet Union, 2.8 million people in Germany, 2.3 million people in Japan, and 50-80 million people in the world?

プーチン大統領やゼンスキー大統領、ロシアやウクライナで戦っている兵士、世界中で戦争をしている人みんなは、家族とは何か、生きるとは何か、死とは何か、自分たちは何のために生まれてきたのかを、銃口を向ける前に考えてください。美しいキエフの町を壊さないでください。戦争は絶対悪です。一刻も早い収束を願っています。

President Putin, President Zensky, soldiers fighting in Russia and Ukraine, everyone at war around the world, what is a family, what is life, what is death, what are they? Think about what you were born for before pointing the muzzle. Do not destroy the beautiful Kyiv town. I hope that the war will end as soon as possible.

キエフの教会


 
大統領閣下 手紙を書きます
もしお暇があれば 読んでください
僕は今 戦争に行くようにとの
令状を受け取りました いわゆる赤紙です 
大統領閣下 僕は嫌です
戦争するため 生まれたのではありません
勇気を出して あえて言います
僕は決めました 逃げ出すことを

Write a letter to your Excellency
If you have time, please read
I'm going to war now
I received a warrant, so-called red paper.
Your Excellency I don't like it
I wasn't born to war
With courage he dares to say
I decided to run away

生まれてこのかた 父の死を見て
兄は戦場へ行き 子どもが泣くのを見
悲しむ母を見ました その母は墓の中
爆弾も平気 ウジ虫も平気
牢から出た僕に 愛する妻も
過去の愛しい日々も 魂さえない
明日の朝早く 忘れたい思い出を
部屋に閉じこめて 僕は旅立つ

Seeing the death of my father
My brother goes to the battlefield and sees the child cry
I saw her sorrowful mother, her mother in her grave
Bombs are okay Maggots are okay
My beloved wife who came out of prison
The dear days of the past and even the soul
Memories you want to forget early tomorrow morning
Lock up in the room and I'm leaving

行く先決めず 見知らぬ国から
この世の果てまで 声高らかに 
“ ノン ”と言うのだ 戦争を拒否せよ
我らは同じ人間
血を流したいなら どうぞあなたの血を
猫をかぶったみなさん お偉い方々
僕を見つけたら どうぞご自由に
撃ってください!

From a strange country without deciding where to go
Loudly to the end of the world
Say "non" reject the war
We are the same person
If you want to shed blood, please have your blood
Great people wearing cats
If you find me, feel free to
Please shoot!

撃 っ て く だ さ い !

Shoot it!



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