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▶天国と極楽のお話

キエフの聖アンドリーイ教会

 

 キリスト教では死んだら天国に行くとされています。浄土真宗では、誰でも死んだら極楽浄土に往生できると言われています。キリスト教はあまり詳しくありませんが、天国はエデンの園と考えられるのではないかと思います。アダムとイブが最初に出会った場所です。エデンの園はメソポタミア文明発祥の地のイラクのチグリス・ユーフラテス川の近くにあったと言われています。イスラエルやヨーロッパから見ると東に位置します。メシア思想では、救世主が東方から現れて人類を救済すると言われていて、その救世主がキリストとされています。太陽は東から昇りますから東に天国があると考えるのは自然なことです。

一方、日本では、天国と同じ様な場所として極楽があります。天国と極楽の違いは、天国は欲しいモノが何でも満たされる世界であるのに対して、極楽は欲しいという欲望から開放される世界であることです。

阿弥陀様は西にいて教えを説いていると言われています。西方極楽浄土と言うように極楽は西にあるのです。光に満ち溢れた阿弥陀様が日が沈む西にあるのは奇妙です。阿弥陀様は、キリスト教の救世主であるメシアと同じ使命を持って現れたのではないかという説があります。ということは、極楽と天国は同じ場所で、天国がイラクにあるとすると、極楽浄土もそのあたりにあると推測できます。仏教が発祥したインドやアジア、日本から見るとイラクは西です。これで極楽浄土が西にあるという話と辻褄があいます。

ロシアやウクライナで毎日たくさんの人たちが亡くなっています。プーチン大統領やゼンスキー大統領、ロシアやウクライナで戦っている兵士、世界中で戦争をしている人みんなは、家族とは何か、生きるとは何か、死とは何か、自分たちは何のために生まれてきたのかを、銃口を向ける前に考えてください。美しいキエフの町を壊さないでください。一刻も早く愚かな戦争が終わることを願っています。

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昼休み、上野を歩いていましたら、京成上野駅の近くにある金色のアヒルの像が目に止まりました。そこには、川柳の原点「誹風柳多留発祥の地」と書いてありました。平成27年8月に柳多留250年実行委員会と台東区教育委員会の人たちが建てたものらしいのです。樽には「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」という川柳が彫られていました。 Googleで調べましたら 誹風柳多留(はいふうやなぎたる) は、1765(明和2)年から1840(天保11)年まで毎年刊行されていた川柳の句集だそうです。 このアヒルの句は「木綿」と号した誹風柳多留の編者の 呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし) の作ということでした。呉陵軒可有という奇妙な名前は「御了見可有」という慣用句をもじった名前で「堪忍して下さい」という意味があるそうです。句会で、いつも賞品をさらってしまう人で「な~んだ、またあんたかね」という軽い羨望と嫉妬の声に、「ご了見、ご了見」と答えていたところから、この名前がついたと言われます。 誹風柳多留と樽をかけて、その上に金のアヒルを置いたものらしいです。樽の謎は解けましたが、問題は、誹風柳多留の中の数ある川柳の中からアヒルの句が何で選ばれたのかということです。 川柳 は、俳句と同じ五七五ですが、俳句には季語や切れ字の約束がありますが、川柳にはそういう規律がなく、かなり自由です。俳句が自然や風景を詠うことが多いのに比べて、 川柳は題材の制約がなく 、人の暮らしや出来事、人情までも扱われます。 そのため、政治批判、博打、好色など風紀を乱すとされた句も詠まれて、お上から忠告された時代もあったそうです。その後、風流、ワビサビを追求する俳句とは違った路線を歩むことになります。会社員の悲哀を詠ったサラリーマン川柳などはその好例でしょう。 「いい家内 10年経ったら おっ家内」( サラリーマン川柳 傑作選より ) そこで、「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」の句です。鷹のように大空高く飛ぶことができる鳥を俳句だとすると、川柳はアヒル。アヒルだって羽を持っているのだから、言い訳ほどだけど、少しは飛ぶことはできるのだよ、という斜に構えた皮肉を込めた意味だと思います。 記念碑の横の石碑には「孝行を したい時分に 親はなし」の句が彫ってありました。ずばりと真実を突いて、うまいこと言うなと思いました。アヒルにはアヒ

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