この季節になると、山から葉っぱが落ちてくる。葉っぱはアスファルトで固められた道の上を舞って、しまいには行き場を失って山裾に溜まっていく。夏の暑いときは何とも思わなかったが、カレンダが残りが少なくなるとともに気になりだした。 先週の日曜日、若い二人の女性が近くの空き地のゴミを拾っていた。「ごくろうさま」と声をかけると、こちらの方を少し見て、顔を見合わせて笑っていた。二人の姿が妙に楽しそうに見えた。今まで、掃除なんて進んでやろうとは思ったことがなかったが、やってみたくなった。 新しいホウキとちりとりを近くの金物店で買った。それは、祖母が使っていたのと同じ型のホウキだった。祖母は、次から次へと落ちてくる葉っぱを飽きもせずに毎日掃いていた。おかげで、いつも道はきれいだった。 作業が進むにつれて、体中がぽかぽかし始めた。ジャンバーを脱いだが、それでも暑くて結局、セーターも脱いでしまった。 ザーザーというホウキの音を聞きながら掃いていると頭が澄んでくるように感じた。ギリシャ時代に、レンズを磨きながら物語の構想を練った作家がいたそうだが、単純作業と言うのは考えることに適しているのかもしれない。 掃いていると、道を通る人が、大変ですねえ、とか、精がでますねえとか、声をかけてくれる。近くに住んでいるお年よりは、みんな葉っぱ掃除が日課なのだそうだ。アパートの前は、掃除する人がいないので汚れ放題だそうだ。僕の家の前も、そんな噂が立っていたのかもしれない。 10メートルくらいの距離だが、掃き終えるまでに1時間くらいかかった。終わった時は、汗だくだった。葉っぱ掃除は、意外に運動になる。終わってみると、葉っぱが片付いたと言うだけでなく、気持ちがさっぱりした。世の中の役に立っているという思いもちょっぴりあった。 最近、掃除を奨励している会社が多いそうだ。トイレ掃除を社長が率先してやっている会社もあるらしい。そんな会社は業績が伸びているのだという。空き地のゴミ拾いをしていた二人の女性も、祖母も、近くのお年よりも、みんな、この効用を知っていて、進んでやっていたのではないかと思った。掃除は、エントロピーの増大を阻止する実に人間らしい行為なのではないかと思った。 欧米人が日本に来たとき、ゴミが落ちていないので驚いたと言う。日本人は、古くから健康法として精神のケアとして、掃除をやっていたのかも知れない。