お祭りの宵宮に日、集会所の前に置いてあった屋台の写真を撮っている人がいる。どうやら、その屋台に彫ってある獅子や鳳凰の彫刻に興味があるらしい。この屋台は、古いものだと父から聞いていたが、どのくらい古くて、どれだけ価値があるものかは分からなかった。
写真を撮っている人に声をかけてみると、浦賀から来ているという。浦賀の西叶神社に彫ってある獅子の作者が後藤利兵衛という人で、この大道の屋台も彼が作ったものだという話が、どこかの古文書に載っているのだという。金沢八景の洲崎神社の獅子頭も利兵衛の作ということだった。早速、文献を調べたら確かに「南総の彫工 初代 後藤義光」という書籍に利兵衛が「金沢区大道 大道屋台」を彫ったと書かれている。
後藤利兵衛は1815(文化12)年、安房(あわ)国朝夷(あさい)郡北朝夷村(現在の千葉県千倉町北朝夷)の生まれ。幼名は「若松」。父親は、山口弥兵衛といい大工を生業にしていた。幼少の頃から大工道具が身近にあり遊び道具に使っていた。14歳のころには地元の愛宕神社に残されている大黒天像などを彫り、すでに彫刻師としての頭角を現していた。1837(天保8年)年、23歳の時に江戸は京橋の彫刻師、後藤三次郎恒俊の弟子となり、恒俊が鴨川市の安房の誕生寺を訪れた際に門弟になった。その後、師匠の後藤姓をもらい「後藤利兵衛光定」を名乗った。後に「後藤利兵衛義光」に改名。1902(明治35)年に88歳で没した。(後藤利兵衛人物事典 https://sorairo-net.com/rekishi/jimbutsu/gotorihe.html)
洲崎神社に伝わる雄雌の獅子頭も、1849(嘉永2年)に彫刻師の後藤利兵衛が彫ったと云われている。戦前は、7月の祭礼の時に4人の若衆が町内の厄除けのために雄雌の獅子頭を担いで廻った。麻疹(はしか)の子どもが、獅子の口に噛まれると早く平癒するという言い伝えから、守り神として尊信されていた。http://susa-haya.jugem.jp/?eid=3
三浦半島から見ると千葉は広くて遠い。しかし、地図を眺めてみると海を渡れば意外に近い。後藤利兵衛は、浦賀まで船で来て、浦賀道を通って金沢八景まで陸路で来たのではないか。西叶神社の彫刻が1842(天保13)年、洲崎神社の雄雌の獅子頭が1849(嘉永2)年の作品と伝わっている。三十代という彫刻師としての絶頂期に、幕府があった鎌倉にも近い浦賀や金沢の地で仕事をしたということは興味深い。
後藤利兵衛は、なんでこの地を選んだのか、どんな思いでここに彫刻を残したのか。謎は深まるばかりだ。それから二百年、この屋台は毎年7月の天王祭になると、子どもたちにひかれて、今でも町内を巡行している。(20190715 廣瀬隆夫)
【西叶神社の彫刻】
http://kanoujinja.p1.bindsite.jp/pg409.html
【南総の彫工 初代 後藤義光】
監修:稲垣祥三
発行 コアブックス
株式会社コア 千葉県館山市北条700番地2
http://bosotown.com/archives/6359
後藤利兵衛が手がけた神輿・山車・屋台 (横浜・葉山)
・金沢区洲崎 洲崎神社屋台
・金沢区大道 大道屋台
・葉山町一色 森山神社屋台
【おらがまち】
https://www.oragamati.com/entry/gotou-tyoukoku
【洲崎神社の「金獅子」】
https://yokokana.exblog.jp/16257331/
写真を撮っている人に声をかけてみると、浦賀から来ているという。浦賀の西叶神社に彫ってある獅子の作者が後藤利兵衛という人で、この大道の屋台も彼が作ったものだという話が、どこかの古文書に載っているのだという。金沢八景の洲崎神社の獅子頭も利兵衛の作ということだった。早速、文献を調べたら確かに「南総の彫工 初代 後藤義光」という書籍に利兵衛が「金沢区大道 大道屋台」を彫ったと書かれている。
後藤利兵衛は1815(文化12)年、安房(あわ)国朝夷(あさい)郡北朝夷村(現在の千葉県千倉町北朝夷)の生まれ。幼名は「若松」。父親は、山口弥兵衛といい大工を生業にしていた。幼少の頃から大工道具が身近にあり遊び道具に使っていた。14歳のころには地元の愛宕神社に残されている大黒天像などを彫り、すでに彫刻師としての頭角を現していた。1837(天保8年)年、23歳の時に江戸は京橋の彫刻師、後藤三次郎恒俊の弟子となり、恒俊が鴨川市の安房の誕生寺を訪れた際に門弟になった。その後、師匠の後藤姓をもらい「後藤利兵衛光定」を名乗った。後に「後藤利兵衛義光」に改名。1902(明治35)年に88歳で没した。(後藤利兵衛人物事典 https://sorairo-net.com/rekishi/jimbutsu/gotorihe.html)
洲崎神社に伝わる雄雌の獅子頭も、1849(嘉永2年)に彫刻師の後藤利兵衛が彫ったと云われている。戦前は、7月の祭礼の時に4人の若衆が町内の厄除けのために雄雌の獅子頭を担いで廻った。麻疹(はしか)の子どもが、獅子の口に噛まれると早く平癒するという言い伝えから、守り神として尊信されていた。http://susa-haya.jugem.jp/?eid=3
三浦半島から見ると千葉は広くて遠い。しかし、地図を眺めてみると海を渡れば意外に近い。後藤利兵衛は、浦賀まで船で来て、浦賀道を通って金沢八景まで陸路で来たのではないか。西叶神社の彫刻が1842(天保13)年、洲崎神社の雄雌の獅子頭が1849(嘉永2)年の作品と伝わっている。三十代という彫刻師としての絶頂期に、幕府があった鎌倉にも近い浦賀や金沢の地で仕事をしたということは興味深い。
後藤利兵衛は、なんでこの地を選んだのか、どんな思いでここに彫刻を残したのか。謎は深まるばかりだ。それから二百年、この屋台は毎年7月の天王祭になると、子どもたちにひかれて、今でも町内を巡行している。(20190715 廣瀬隆夫)
【西叶神社の彫刻】
http://kanoujinja.p1.bindsite.jp/pg409.html
【南総の彫工 初代 後藤義光】
監修:稲垣祥三
発行 コアブックス
株式会社コア 千葉県館山市北条700番地2
http://bosotown.com/archives/6359
後藤利兵衛が手がけた神輿・山車・屋台 (横浜・葉山)
・金沢区洲崎 洲崎神社屋台
・金沢区大道 大道屋台
・葉山町一色 森山神社屋台
【おらがまち】
https://www.oragamati.com/entry/gotou-tyoukoku
【洲崎神社の「金獅子」】
https://yokokana.exblog.jp/16257331/
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